11 夜空に咲く花
朝顔の柄の浴衣は、祖母が昔縫ってくれたものだった。
『加奈子ちゃんは背が高いけん、むずかしかねえ』
そんなふうに苦笑いした祖母は他界してもう三年だ。お揃いで作ってもらったのだからとみさちゃんが言い出して、わたしは母に古い浴衣を出してもらった。
みさちゃんは赤の朝顔。わたしは紫色の朝顔だ。
夕方の七時。博多駅で待ち合わせをしたのだけれど、二人並んだとたんに、男の人に声をかけられる頻度が急増した。きっとみさちゃんのせいだなと思っていると、彼女は言う。
「うんうん、やっぱ加奈子ちゃんと一緒にいるとナンパも多いよね」
可愛らしいみさちゃんに言われると返答に困る。苦笑いをしつつ、わたしたちは下駄を鳴らして会場へとむかう。
博多駅から地下鉄に乗り、
平日も週末もウォーキングやランニングの愛好家で賑わう場所なのだが、今日は花火の観客でうめつくされていた。
場所取りをしているとみさちゃんが案内してくれるので、わたしは下駄を鳴らしながら彼女についていく。
辺りはむわっとした熱気と、湿気と、音楽に満ちている。ラジオでリクエストを募集と言っていたから、きっと花火が始まるまでの余興なのだろう。
大通り沿いにはお祭りのように露店がたくさん出ていて、あちこちから香ばしい香りが漂ってくる。とうもろこし、イカ焼き、焼きそば、フランクフルト。
露店定番のメニューに囲まれて、
それは学問の神様、
昔、よく本殿の奥にあるお店で焼きたての餅を食べた事を思い出す。薄く伸ばした餅がパリッとしていて、中の餡は甘さが控えめでとても美味しかった。
だけど、地元民にはさほど珍しいものではないのだろう。わたしの足が緩むのに気づかずにみさちゃんは先へ進む。わたしはしかたなく生唾を飲み込んで、甘い誘惑を振りきった。
「そういえば、加奈子ちゃん、失業したって? おばちゃんが言ってたけど」
歩きながらみさちゃんが尋ねる。遠慮無くさらっと聞いてしまうところが、みさちゃんの悪いところであり、いいところでもあると思う。それで傷ついてしまう人もいるだろうし、そういう人は彼女を敬遠しがちだ。
だけど、この踏み込みを距離の近さだと思ってくれる人ならば、心を開けばすぐに仲良くなれる。要は、相性だ。
「ん。転職決まってたんだけど、急に業績が悪くなって」
そしてわたしはみさちゃんとの相性は良い。歳が少し離れているからかもしれないけれど、彼女のトゲトゲがカワイイなと思うのだ。
「そりゃあ、災難だー。まー、でも加奈子ちゃんならすぐに次見つかるよ。また東京で探してるの?」
「うーん。なんか疲れちゃったからちょっと休養中っていうか。だからどうするか全然考えてない」
遠慮がないから口も軽くなる。兄弟姉妹のいないわたしにとっては、彼女は限りなく妹に近い存在なのだ。
「彼氏とかいるんでしょ? 頼っちゃえばいいのに」
「……う、ん」
とたん歯切れが悪くなるわたしに、みさちゃんは即座に突っ込む。
「なにか悩んでるんだ?」
「うーん……」
言おうかどうか迷ったが、みさちゃんはこれでも口は堅い。本人曰く、うわさ話をするような相手がいないということだけど。
「誰にも言わない?」
任せてよと頷くみさちゃんに心を決める。
「プロポーズされたんだけどね、なんか……急に上手くやっていく自信なくなっちゃったんだよね……」
拓巳にプロポーズされたあとに、失業して。就職するまで結婚できないと言われた。支えてくれるどころか、みっともないと言われた。
あんまりしっかり話すと泣きそうだったから、かいつまんで話す。だけど簡略化された話にも、みさちゃんは鼻にシワを寄せた。
「ええー……なんかそれ最悪。仕事決まるまで結婚先延ばし? 結婚してもバリバリ働いて、いつまでも綺麗でいてくれみたいな? なんか家事も全部押し付けられそうだよね。そういう男って、子供ができても変わんないから、負担ばっかり増えて絶対大変だよ。いくらお金があっても、結婚相手としてはやめたほうがいいって」
「やっぱり、そうかな」
はっきりきっぱりと言われて、自分の感覚がおかしくないと知ってホッとした。
どこかにきっと不安があったのだろう。
これはわたしのわがままなのではないだろうかと。わたしさえ我慢すれば、すべてが平和に回っていくのではないかと。
既婚者の意見をもっと聞いてみようと、口から旦那さんの名前を出そうとして、声が裏返りそうになった。
そうだった――みさちゃんの旦那さんは、上原くんの弟。
わかってたはずなのに、急に胸が騒ぎだしてどうしようもなくなる。
落ち着け、治まれ。わたしは胸をぐっと抑えると平静を装って、口を開く。
「う、上原さん、はどんな感じなの」
「りょーへいは、外見に似合わずマメだからね。家事だって完全に半分こ」
ふっふっふと遠慮なくのろけるみさちゃんは素直で可愛いと思う。思うままに生きてるなというのが羨ましい。
と、そのとき、ふと疑問が湧き上がり、わたしは挙動不審な自分をごまかすついでに尋ねる。
「そうだ。みさちゃんって、上原さんとどうやって知り合ったの? 式では友人の紹介って言ってたけど」
「あー……加奈子ちゃんまでそういうこと聞くわけ? どうせ不釣り合いとか言い出すんでしょ」
みさちゃんがむっと眉を寄せ、わたしはぎくりとする。だけどそれも一瞬のこと。彼女は直前の不機嫌さがウソのように、にひひと笑った。
「なーんてね。加奈子ちゃんだから言うけどさ。わたしもさー、最初はあんなの相手にするわけないって思ってたんだよ」
「そうなの?」
「だってクマみたいだしさ、学歴も家柄も職業も給料ももちろん普通で、高いのは背だけっていう男だよ? でも、酔った勢いでホテル行っちゃったらしくてさ。あんたみたいなフツメンと寝るわけ無いし、訴えてやるって言ったんだけど、……なんやかんやでこういうことになっちゃったんだよねえ。人生って不思議」
「…………」
聞いてはいけないことを聞いてしまったかもしれない。思わず周囲を見渡す。喧騒に紛れて際どい会話に気づいた人がいないことにほっとする。
そういうお話(酔った勢いで云々のくだりのみだけど)はドラマなどで見たことがあるけれど、本当にやらかしてしまう人がいるとは思いもしなかった。
それに、どうやったら訴えてやるところから結婚することになってしまうのだろう。興味はあるけれど、聞くのはちょっと怖い。
「でもね、りょーへいは、多分初めてわたしの中身を好きになってくれ人だったんだよね。だから、うまくやっていけると思ってるよ。実際うまくいってるし、これからもうまくいくと思う」
「中身……か」
拓巳はどうだろう。彼が好きだと言ってくれた《きちんとしているわたし》は、自分で作り上げた外面だ。
本当のわたしはきちんとしてない。今だって就職活動もせずにふらふら遊んでいる。
こんな堕落した状態のわたし、きっと好きになってくれないと思う。それこそ拓巳だけじゃない。他のどんな男の人もそう言うと思う。
暗澹とした気持ちに沈んでいると、みさちゃんがうーん、とうなった。
「問題は加奈子ちゃんがそれでも彼のことを好きってことでしょ?」
「え?」
「だって別れないんだもん」
何の疑いもなく言われて、返答に困った。
好き――なのかな。好きだったのかな。
別れないのは、きっともうあとに引けなくなってるから――というのが正しい気がする。指輪を返して、罵られて。彼のご両親にも謝らないといけないし、と考えていると怖くて仕方がない。億劫で仕方がない。流されてしまったほうが楽なのではないかと思ってしまう。
そんなわけ、絶対無いけれど。
長らく流されることに慣れてしまった怠惰なわたしには、この壁が重くてしかたがないのだった。
***
地下鉄の駅から歩いて十分ほどしたところでみさちゃんが小走りになる。
「そろそろかな……このへんのはず――あ!」
みさちゃんは手を振り、わたしは目を見開いた。
「……ど、いうこと」
声がかすれるのも仕方がない。だってブルーシートの上では上原くん――みさちゃんの旦那さんではなく、兄のほう――が場所取りをしていたのだ。
「りょーへいは仕事だから、お
先日義兄になったばかりの人に頼む!? ちゃっかりしすぎていて開いた口がふさがらないけど、そういうところがあった、彼女には、確かに。
可愛くおねだりされると断れないのはわたしもだったし。
呆然としているわたしの前で、上原くんがみさちゃんに笑いかける。
「夜中場所取りして、一回帰ってるから大丈夫。おれ、時間に融通きくから、気にしないで。それに良平が見張ってろってうるさいから。あいつも終わったらすぐに来ると思うけど、この人混みだから、合流できるか怪しいしね」
みさちゃんには涼しい顔で答えながらも、こちらを見てにやりと笑う上原くんが憎らしい。
どういうつもり? まさかだけど、みさちゃんを利用したの!?
あり得なくはない。だってこの間ラジオで案内が流れた時に誘われたら、わたしはきっと断っていた。夜のお出かけでふたりきりなど、無理だと思ったから。
空気を読むのに長けている上原くんなら、それを読み取って別の手段をとってもおかしくない。
じっとりと目で問うけれど、彼は笑って缶ビールを飲むだけだ。それがまた美味しそうに飲むものだから、悔しかった。
ふと見ると小型のクーラーボックスが置いてある。あの中にはきっと数本のビールが入っているに違いない……と思うと、喉が鳴りそうでわたしは奥歯を噛みしめて堪える。
もう食べ物、飲み物では釣られないからね!
堪えた途端、身体を取り巻く熱気が急に増したように思えるけれど、ここは我慢だ。
むうっと口を閉ざすわたしに、みさちゃんは
「結婚式では会ってると思うけど改めて。加奈子ちゃん、こちら瑞生さん」
と紹介をくれる。
どうやら、みさちゃんにあれこれ話してはいないようだ。少しホッとしながら「こんばんは」と無難な挨拶をする。
引きつった顔のわたしと対照的に、みさちゃんはどこか嬉しそうだ。
「高校同じだって聞いて、めっちゃくちゃびっくりしたんだー。瑞生さんは顔を見たことあるって言ってたけど、加奈子ちゃんは瑞生さんのこと知ってた?」
顔見たことあるってレベルじゃないよね? 告白してきたよね!?
「……顔、は見たことあるけど、クラスも違ったし、話したことはないかも」
とりあえず話を合わせておく。そうしながらも睨んだけれど、全然堪えていないのが露骨にわかる。反応を楽しんでいるような面白そうな表情が垣間見えて、わたしはその場を去りたくなる。
みさちゃんには悪いけど。――でもみさちゃんも悪いよね! 二人でって言ってたから来たのに!
「みさちゃん、悪いけどわたし――」
用事を思い出した、そう口にしかけた時だった。一瞬早く上原くんが口を開いた。
「突っ立ってないで座ったら? 梅ケ枝餅、食べない?」
その言葉に思わず目を見開いてシートの上を見ると、いつの間にか、先ほどわたしが買いそびれた梅ケ枝餅が並べてある。
竹の皮に包まれた、十個の焼き餅がまだうっすらと湯気を立てていた。
「…………」
絶句したわたしは、うわああああああっ――と柄にもなく叫びたくなった。
頭に血が上る。
この男は、この男は!! どうして、わたしの弱みを知り尽くしてるわけ!?
ビールで案外追い込まれていたわたしは、餅の前に降参するしかなかった。
下駄を脱いでブルーシートの上に座ると、「どうぞ」と目の前に缶ビールが置かれる。それはキンキンに冷えていた。
楽しげな上原くんから目を逸らしながら、一気に喉に流し込むと、身体を蝕んでいたむしむしとした不快さが一気に払われる。
――どおん
ぱっと空が明るくなる。続く地響き。嵌められたという不愉快さが火花とともに魔法のように消えていく。
「うわあ……」
身体が音で震えるのだ。火花が網膜に焼き付くのだ。
全身が耳になったような感覚で、わたしはただただ呆然と空に咲く花に見入っていた。
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