10 ため息と風呂の泡
うちの風呂は、父のこだわりで、毎月の水道代が心配なくらいに浴槽が大きい。そこになみなみと張られたお湯に身体を浮かせると、わたしは天井をじっと見つめた。
むかしから天井の幾何学模様は日によって違って見えた。その日の気分で、あるときは大きな雲に見えたり、鳥の群れに見えたり。子供の頃などは、天井に描かれる絵物語をひそやかな楽しみに風呂に浸かっていた。
だけど――今日そこに現れたのは海岸に打ち寄せる波の形だった。
「んー……」
眉を寄せると、ざぶんとお湯に潜る。ため息を吐きだすと、それは泡となって消えていく。
今日も一日楽しかった。すごく楽しくて、時間がすぎるのが驚くほどに早かった。
だけど、いくら追い払っても胸の中に居座って来る人の存在に、わたしはずっと怯えていたような気がする。
さすがにこれが何かわからないほど鈍くはないつもりだったけれど……問題は、この気持ちを抱いたのが生まれて初めてで、だからこそ確信が持てないということだった。
疲れてるときに優しくされたら、だれだって、気が迷うよね……。
わたしはどうやらこの感情を気の迷いだと思ってしまいたいみたいだった。
だって、そうじゃないと、わたしを全否定してしまうことになってしまう気がして。
真面目に生きてきたと思ってきた。そしてこれからもそうしていきたいと思っている。なのに、こんなふうにふらふらしてるのはらしくない。
彼氏がいるのに、他の男の人と遊びに行くなんて、それだけでも不誠実なのに……心が揺れてしまっているなんて、ちょっと自己嫌悪では済まない話だった。
ぶくぶくぶくぶく…………。
止まらないため息を吐きつづける。
ああ、わたし、今のわたしがすごく嫌い。どうしてこんなことになってしまうんだろう。
ぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶく…………。
息が苦しくなって、くらりとしたところで、まるで計ったように母の声が響いた。
『加奈子ー、死んどらんね?』
脱衣所に響いた声に、驚きで水を飲みかけた。
「し、死んどらんよ!」
一歩間違うと、溺れていたかもしれない。冷や汗をかきながら答えると、
『ならいいけど。あぁ、さっき上であんたの電話鳴っとったよ』
「え、そう?」
わたしはぎょっとする。
また「上原くん!?」と真っ先に考えてしまっていた自分にびっくりだ!
いやいやいや、だから、電話番号教えてないし!
あのあとも上原くんはアドレスも番号も聞かずに、次の約束もせずに帰ってしまったのだ。
相変わらず引き際が良すぎて、寂しいくらいだった。
『早く上がり。のぼせるよ』
母が脱衣所から引っ込むと、わたしは大きく深呼吸をした。そして多少持ち直した自分に言い聞かせる。
「次は、もう無いんだから――」
あってはいけないと思う。とにかく今の状況はどっちつかずでよろしくないのだ。
「だけど……わたし、どうしたいの」
どっちつかずをやめるということは、選択するということだ。
今までは選ばれて、相手が去るというパターンだった。自分から選んだことも去ったこともないせいで、途方に暮れた。
じゃあ、拓巳と別れる?
まずその案が浮かんだことで、自分の気持ちがもう彼のところにないことを実感してしまう。
だけど――。
ぐるぐると悩みだす。気が緩むとまた顔が水面に近づいてしまう。溺れてはいけないと風呂から上がると、肌の手入れをして、髪を乾かす。
重い足を何とか持ち上げて自室に戻ると、クローゼットの中のバッグから赤い革張りの箱を取り出した。
蓋を開くと、ダイヤの指輪が存在感を主張するようにまばゆく光る。
最初に見た時の感動は一体何だったのだろうと思えるほどに、心が動かなかった。
今になってみると、何が嬉しかったのかもわからなくなっているのが衝撃だった。
給料の三ヶ月分だと思えるような、曇りのない輝きだろうか。それともケースに刻まれたあこがれのブランド名だろうか。
――好きじゃないのに条件で判断して付き合ってるってやつ――
結婚式での上原くんの指摘が胸に刺さる。時間差で図星を突かれてぐったりとした。
ああ、わたし……今、ちょっと反論できそうにないんですけど。
過去の自分を思うと、恥ずかしくて顔から火が出そうになった。枕にしがみつく。そうしながらも、指輪を指にはめてみる。
こっちの食べ物が美味しすぎて、太ったのだろうか。むくんでいるわけでもないのに、指輪が関節のところでピタリと止まる。まるで身体まで拒絶しているようで、ため息が出た。
でも――。
わたしは、これを受け取ってしまっている。つまり、今までの別れとはわけが違うのだ。
その事実が重く肩にのしかかり、息苦しさにめまいがした。
それに、別れたとして、わたしはどうするのだろう。
上原くんの気持は良くわからない。
好きだったのは昔のことで、本当に友達のつもりで付き合ってくれているのかもしれない。
勇気を振り絞って彼に走ったとたんに玉砕、なんてことがあってもおかしくないし、もし受け入れてくれたとしても、彼は……フリーターだ。
無職のわたしとフリーターの彼。どうやって生きていけばいいのか、まったく想像できない。
付き合ってもいないのに皮算用もいいところだけれど……結婚を視野に入れないで気軽にお付き合いするには、わたしはもう歳をとり過ぎている。
ベッドに仰向けになり目をつぶる。と、その時、スマホがぶうんと音を立てた。
「あ、そういえば、電話鳴ってたって……」
拓巳かもしれない。なんとなくそう思って、胃が痛くなる。だとしたら、今は出たくない。話したくない。
それでもバイブレーションに促され、起き上がってローテーブルに置いたスマホを手にすると、恐る恐る通信欄を確認した。
「あれ――……? ――わあ!」
わたしは目を見開いて、直後、歓喜に頬を緩ませた。
『美砂でーす\(^o^)/』
通信欄に現れたのは、従妹のみさちゃんからの着信履歴とメールだった。憂鬱な気持ちが一気に吹き飛ぶ。わたしは喜々として液晶をスワイプし、メールを開いた。
『加奈子ちゃん お久しぶり! 先日は結婚式に来てくれてほんとありがとう!
良平が『美砂の従妹、さすがに美人だな』って鼻の下伸ばしてたよー!』
きっと怒ったんだろうなぁ。頬をふくらませているかわいいみさちゃんを思い浮かべて苦笑いしながら、わたしはスクロールして続きを読んだ。
『でさー、二次会の埋め合わせしてくれるって言ってたでしょ?』
そうだった。すっかり忘れていたと、青ざめたところで、次の文章が目に入り、
『あれね、来週の花火大会に一緒に行って欲しいんだー』
わたしは思わず固まった。
「――え?」
花火大会――それは今日の午後、ラジオで知ったばかり。
花火大会は魅力的だったけれど、一人で行くのはさすがに勇気がいるから、無意識に諦めかけていたのだ。
あまりのタイミングの良さにびっくりして、思わず素で声が出た。
『りょーへい、仕事で来れるかわからないって言うしさ。
知ってると思うけど、わたしってこんなだから友達少ないんだよね。
で、その少ない友人の一人は、赤ちゃんいるし、人混みはちょっと無理って断られたんだよ。
だけど、好きなんだよねー、あのど迫力。だから諦めきれなくってさ。
加奈子ちゃんも好きだったでしょ。
よかったら、一緒に行かない? 美砂ヽ(=´▽`=)ノ』
なんて素敵な誘いだろうとわたしは思わず飛びつく。
『すぐに連絡しなくてごめんね! 花火大会、行きたいなって思ってたんだよ!
新婚さんのおじゃまにならないんなら、行きたいです! 加奈子』
送信ボタンを押した途端、眼裏には頭上から降ってくる炎、そして、耳には地球の鼓動のような爆裂音がよみがえる。
過去の記憶のきらびやかさに、ふう、と小さくため息を吐くと、手元に目を落とす。永遠の輝きとは誰が言ったのだろう。
薬指に引っかかっている指輪をしばし見つめたあと、革張りのケースに仕舞いこむ。
目をつぶり、憂鬱を吐きだす。
今のままではいけないのだ。先延ばしをしても何も解決しないことはわかっていた。
――だけど、あと少しだけ猶予が欲しかった。
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