9 無職とフリーター
「あれ? あー、定休日?」
割烹店の前で頭をかく上原くんに、わたしは言葉を失った。
案内されたヒラメが美味しいお店の扉には「準備中」のプレートが掲げられていたのだ。
じゃあ、わたし、なんのためにここにいるの。――という不満を飲み込みつつ、よくよく店の案内を見て、わたしは堪えきれず眉をしかめた。
「……って、定休日以前に、お昼は開いてないよね、このお店?」
我ながら冷ややかな声が出たと思う。顔色をうかがうのが癖になっているわたしなので、普段なら絶対出さないような声だった。
だけど、これは上原くんが確実に悪いと思う。だって、案内すると言ったからには、最低限調べておくべきことでしょう!
険悪な雰囲気を漂わせるわたしだったけれど、上原くんは例によってまったく頓着せず。毛の生えた心臓の持ち主に本気で戸惑う。
「しょーがないから、お昼は別んとこにするか」
「って、わたし、ヒラメを食べるためにここに来たんだし!」
じゃないと自分に、それから万が一バレた時に言い訳ができないと、わたしはむきになる。
「まあまあ。今ってさ。ヒラメの旬って今じゃないわけ」
「え」
上原くんの言葉に、わたしは殴られたような衝撃を受ける。
「ヒラメの旬は冬。それに、ヒラメって東北の漁港で取れるような魚だから、こっちで食べるにはもっとうまいものあるんだよ。おれのお勧めは断然青魚。特にアジがいい」
上原くんはおいでおいでと車にわたしを乗せると、エンジンをかける。
「だから、ここは別の機会にな」
そこまで言われて、もしかして、とわたしは思う。
「だから閉まってる時間に連れてきたりした?」
「……なんのこと?」
澄ました顔で言うと、上原くんは車を発進させる。
車は海沿いを道なりに進むと、ドライブインのような小さな個人店が並んだ場所に入っていく。端からコンビニ、弁当屋、カフェなどが並ぶ中、行列ができている店が一軒あった。
やられた、わたしはそう確信した。そもそもヒラメの旬を知っているような人が、店の営業時間をチェックしないはずがない。
つまり、さっきのヒラメのお店が寄り道であって、上原くんが今日わたしを連れて行きたかったのは、きっとこの店だ。
車から降りた彼が向かったのは、行列のできているジェラート店だった。きっと昨日言っていた例のミルクジェラートのお店だ。
「小腹が空いたからちょっと食べていかない?」
店の外のベンチでジェラートを食べている家族連れを指差した彼に、にやりと笑われる。
エンジンを切った車内には、夏の日差しを吸収しきったダッシュボードからの熱気に満ちている。わたしはゴクリと喉を鳴らすはめになり、甘い誘惑には勝つことができなかった。
上原くんが並んで買ってきてくれたジェラートの一つを受け取る。
口に含むとそれはすぐに溶けていく。上原くんイチオシのミルクジェラートは、ミルクなのにまったく重くなく、あっさりした味わいだった。
カンカン照りの中、外で食べる味は格別。空腹も手伝って、体に染み渡る気がした。
「……悔しいけど、美味しい」
「何が悔しいんだよ」
「わたし、嵌められたってわかってるの」
上目遣いで睨むと、
「へえ」
上原くんはどこか嬉しそうだ。
ムウッとしながらも、甘いモノを食べると眉間の皺が溶けていく。そこまで見越していそうで、わたしは上原くんが少し怖いと思った。わたしの思考なんか、全部お見通しのように思えたのだ。
ジェラートとともに消えそうになる怒りを引き止めるように言う。
「わたし、怒ってるんだよ。どうして嬉しそうなの」
「怒らないほうが怖いし」
「なんで」
「は? だって人間なんだから怒るのなんて普通だろ。怒りたいときは怒ればいい。理不尽な目にあって笑ってるなんておかしいだろ」
「でも……怒ったら喧嘩になっちゃうよね」
衝突は怖い。人との軋轢でできる衝撃がわたしは怖かった。
「おれは、本音で話さないほうがよっぽど嫌だね。それで喧嘩したら仲直りすればいいんだよ、ごめんなさーいって。幼稚園でも習う」
へらっと笑われて、わたしは目を丸くした。
それは新鮮な感動だった。
腹が立っても、顔色をうかがって、本音を言えないのが常だった。
だって、わたしの機嫌が悪いと、拓巳はわたし以上に機嫌を悪くするから。それが気まずくて嫌だったから、少しの不満ならと全部飲み込んでいた。
上原くんにはそんな必要が無いと思うと、すごくホッとした。こわばっていた肩の力が一気に抜ける気がした。
上原くんが車のドアを開ける。
脱力してシートに寄りかかる。先程まで、どこか遠慮して背筋を伸ばして乗っていたシートに。
そうして黙ってジェラートを食べていると、先に食べ終わった彼がエンジンをかけながらぽつんと言った。
「笑いたかったら笑えばいいし、怒りたかったら怒ればいい。……で、泣きたかったら、泣けばいいんだ。本気で好きだったら、笑顔も怒った顔も、泣き顔も、全部かわいいんだから、無理することないと思うんだけど」
目線を上げると、上原くんが真面目な顔をしてわたしを見ていた。
眼鏡の奥の目は、真剣そのもの。
本気で好きだったらって、かわいい――って、……誰のこと?
考えたとたん、胸がすさまじい音を立て、思わず目を逸らしたわたしはごまかすように言った。
「む、無理なんかしてないし」
「そうかあ? その割に表情筋まだ半分死んでるけど」
「し、失礼な!」
上原くんは肩をすくめるとこちらを見つめるのをやめて前を向いた。そして車を出す。
彼の視線から逃れられて、わたしはほっと胸をなでおろすけれど、すぐに危険だ、と頭が警鐘を鳴らした。何がどう危険なのかはっきりとはわからないけれど、とにかく危険だ。
車から降りたいような気分になるけれど、バスさえ通っているかわからない道。タクシーを捕まえるにしろ、通りさえしないだろうから家に帰る足がない。
迷った一瞬の隙に、まるで心を読んだかのように上原くんは車を出した。
カーラジオから、洋楽が流れ始め、こわばった空気が和らいだ。さらにそこにDJの明るい声が割り込む。
『さてさて来週土曜日は待ちに待った花火大会! 花火のスタート前に流す曲を募集中ですよ! どんどんリクエストお待ちしております!』
「うわあ、花火大会懐かし――」
気まずさを吹き飛ばす話題だと思わず反応してしまったものの、わたしはすぐに口をつぐんだ。まるで行きたいと言っているようだと思ったのだ。
それは、高校生の頃、どうしても恋人と行きたかった花火大会。だけど、高校生の頃の彼氏――高橋くんは例によって野球漬けで、夏は試合に練習に忙しすぎて念願を果たすことはできなかった。花火には友人たちと行ったものの、恋人のいる子が浴衣姿を見せたと聞いて、羨ましく思ったものだった。
拓巳と一度だけ行った都内の花火大会は、花火の見えるレストランでの食事だった。
だけど、遠くに響く花火の音、小さく見える尺玉の花火は、わたしが知っている、轟音とともに頭上に上がる花火とは別物だった。
上原くんが誘いを掛けてくるんじゃないかとわたしは構えた。――だけど、彼は黙ったまま。今までが今までなので、正直に言うと不気味だ。
様子を窺うわたしをよそに、上原くんは運転を続けた。そして海沿いの道を逸れて市街地へと向かい、わたしの家の近くまで車は進む。
え、あれ? もう終わり……? お昼ごはんも食べないで?
わたしがそわそわとした時だった。車は予想を裏切って、右に曲がるべきところを左に行った。思わずほっとしてしまったわたしは、そのことに気がついて顔をしかめる。
また、やられた――そんな気になってしまったのだ。
上原くんが何となく楽しげなのでさらに腹が立つ。
「さてと、着いた」
そこはわたしの家から車で10分ほどのところにある、小さな割烹だった。
入り口を入ると、すぐに生け簀がある。中では元気よく魚が泳いでいる。前には地元で取れた新鮮な野菜が棚にわんさと盛られている。珍しく思いながら眺めていると、上原くんが店の人に名前を告げた。
「ここ、旬のものしか置いてないんだ」
庭の見える個室に通されると、そこには『予約席』の札。やっぱり――とわたしはがっくりする。
「予約してるんなら、そういえばいいのに。無駄足でしょ」
「だけど、ここ、ヒラメないっていうからさー。ヒラメなかったらあんた来なかったろ? それにアイス食べに行くっていう大事な用事があったから無駄足じゃない」
何から何までお見通しで非常に気まずい。それに――
「なんか、ここ高そうなんだけど!」
「だから、ランチにしたわけ。二千五百円で懐石食べられるとか、ちょっと考えられないだろ」
ってなにその主婦みたいな情報通! と思っていると、
「って母ちゃん情報だけどさ」
とあっさり彼は漏らし、納得する。主婦ほどお得情報に強い人種はいないのだ。
和服を着た店員さんがやってきて、いらっしゃいませという言葉とともに、お盆が目の前に置かれた。
お盆の上にはアジの刺し身、焼き魚、茶碗蒸し、ほうれん草の白和え、若布の酢の物、グリーンサラダ……と盛りだくさんの小鉢が並べられ、それとは別に野菜の天ぷら、さらにテーブルの中央にはイカの活き造りがどどんと置かれる。イカは新鮮なのだろう。今までに見たことがないくらいに透明だ。
わたしは並べられる料理に圧倒されながらも、苦笑した。
「……失業中とは思えないくらい贅沢」
「こんな機会めったにないだろ。今しかできないことやらないともったいない。満喫しろよ」
上原くんは「いただきます」と神妙に手を合わせると、刺し身から一気に頬張った。そして、満足気に目を細める。
次は焼き魚。彼の箸が身を軽く押すと、ぱりっと音を立てて皮が破れて中の身がホロリとほぐれる。油が少し浮いた、甘そうな白い身。箸先で器用につまむと彼は小さく口を開けて、それを口の中に押し込んだ。
彼は何も言わなかったけれど、緩んだ頬が味を物語っていた。我慢できずにわたしは、さっきから気になっていたイカに箸を伸ばした。
イカは甘かった。そしてびっくりするくらいに歯ごたえがあった。
「なにこれ……」
麻痺していた舌が、刺激に目を覚ます感じがした。なんだか泣きそうになる。
「美味いだろ」
上原くんは嬉しそうに「アジも美味い。おれのイチオシ」と勧めてくる。
ネギを添えたアジを醤油に付けて口に含む。生姜を入れた刺し身醤油は甘辛い。それがアジの油と一緒にじわっと口の中に広がった。
わたしは感想を言う時間も惜しい気がして、夢中で料理を平らげていく。そうして二人もくもくと会話もなく料理を食べ終わると、最後に抹茶まで出てきた。
「ほんと、なにここ……」
これで二千五百円ってなに。東京でちょっとお高いランチを食べてもこれほどの満足感はないし、同じものを食べようと思ったら数倍のお金を払わなければならない。ありえないと思った。
「田舎もまあ、たまにはいいだろ」
誇らしげに言ってスイーツを食べ終わると、上原くんは伝票を手にとった。
「ちょっと――わたし払うし」
と言ったとたん思い出す。昨日、トマトのお金も確か払ってもらったことを。
「トマトのお金も!」
「律儀だよなあ……失業中なんだろ。奢られといたら」
「って、あなたもフリーターでしょう」
「フリーター?」
上原くんが意外そうに片眉を上げて、わたしはハッとした。よくよく考えると失礼な発言だ。やばい――と思ったとたん、上原くんはなぜか楽しげにニヤッと笑う。
「無職とフリーターだったら、軍配はフリーターにあがる。だって収入あるし。0と1だったら1の勝ち」
「う……ごちそうさまです」
簡単な算数の問題に、ぐうの音も出なくて、わたしは結局財布を引っ込めたのだった。
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