8 約束のない関係
母から「夕食の材料は?」という催促の電話が入り、結局道の駅やヒラメは次の機会ということになった。
「ヒラメに釣られたはずなのにな」
笑いながら家の前まで送ってくれた上原くんは、「じゃー、遊びたくなったらいつでも連絡して」と言うと、取り出したメモ用紙に自分の番号とアドレスを書いてよこす。そしてわたしのアドレスを聞きもせずに、あっさりと車を発進させた。
「え――ちょっと、あの」
わたしの周囲にいた男性は、たいてい当たり前のようにアドレスを交換していったので、なんだか拍子抜けしてしまう。気が楽になると同時に、少しだけ寂しいと思ってしまっていた。
わたしにそれほど興味ない? 好きだったのは過去のことってこと?
思わせぶりに絡んできたり、連れだしてくれたり。なのに、きちんと友人という線を引いている。
それならそれで安心だけど……と思いつつもなんだか腑に落ちない。角を曲がるミニバンの後ろ姿を見送っていると、母が玄関から顔を覗かせる。
「遅かったねえ。夕食の準備すすまんやないね――あれ、なんでトマト冷たいんね?」
母の質問を振りきって二階の自室に戻ると、わたしはもらったメモをコルクボードに貼り付ける。
今まで、こういう時は名刺をもらうことが多かった。メールアドレス携帯番号だけでなく、会社名と肩書、全て書いてあって、たいていの男の人がそれを少し誇らしげにしていたものだ。
上原瑞生
090-○○○-○○○○
メモ帳のマス目に綺麗に収まった、読みやすく整った字だった。
パソコンやスマホが普及して、人の書いた文字を見ることが減ったから、余計に新鮮だった。じっと見つめていたけれど、ふとメールアドレスに目が行って、眉が寄る。
「って……これめちゃくちゃ覚えにくい。なに? mu58132134@…………って暗号?」
ランダムに作られた文字列だとしか思えない。だけど、上原くんらしいといえばらしい気もした。
少しだけ悩んだけれど、結局、アドレスをスマホに登録するのはやめておいた。
だってなんだか……浮気の証拠を残しているみたいだし――……
と、考えかけてわたしは目を見開く。
いや、いやいやいや、浮気じゃないし! 友達以上のこと何もしてないし! ちょっと海を見に行っただけだし!
そう言い訳しながらも、ひどく動揺してしまう。やましい気持ちが湧き上がるのは、なんでだろう。
今日、わたしの心が踊ったからだろうか。碧い海と青い空に高揚感を感じ、それから――あの言葉に心が動かされたからだろうか。
『ゆっくりしていけばいいんだよ。あんたがあんたらしくいられる場所でさ』
とたん、どくん、と胸が大騒ぎを始めて、わたしはクッションを抱きしめ、目を閉じる。
治まれ、おさまれ――!
あんなの、なんでもないでしょ。心身ともにすごく疲れてたから……つい、ほだされただけで。
うん、浮気じゃあ、ない。やましいことなんか、なんにもない。なんにもなかった!
そんな風に何度も言い聞かせていると、テーブルに置いたスマホが震えた。
「え、アドレス教えてないよね……?」
上原くん、どうしてわかったんだろう?
不可解に思いつつ恐る恐る拾い上げたスマホの表示を見て、わたしは自分にびっくりした。
思わずごとんと床にスマホを落としてしまう。
『なんで返事くれないわけ?』
メールの送信者は拓巳だった。
返信をしていないことさえ忘れていた。わたしは、自分の中の拓巳への気持ちが確実に変わってしまったことを感じて、愕然としてしまっていた。
***
アドレスを渡さずに済んだのだから、上原くんとはこのままフェードアウトもありだろうと思った。
いや、むしろ拓巳とのことが宙ぶらりんの今はそうするべきだと、昨晩拓巳に近況をメールを返しながらわたしは思ったのだけれど……。
フェードアウトなどさせないのが上原瑞生という男なのかもしれなかった。
翌日、ガランとしたキッチンのテーブルに置かれた大量のトマトを睨んだあと、わたしは大きくため息を吐いた。
朝、二ダース――二十四個のトマトの山を指差して、母は「たしかに美味しそうやけどね、二箱も買わなくてもいいんやないね……」と呆れてわたしを見たのだった。
玄関の隅にもう一箱ひっそりとトマトの箱が置かれていたのだ。
昨日、玄関先まで荷物を運んでくれたのは彼。間違ったのだろうかとも思ったけれど、これだけ大きくて重くて目立つもの、間違うはずがない。
となると、なにか考えがあってのことだろう。
彼の企みについて少し考えると、昨日、彼がわたしの連絡先を聞いていかなかった理由にたどり着いた。
「うーん、でも、さすがにそう考えるのって自意識過剰かな……」
呟きながら、スマホではなく家の電話の受話器を上げた。まだ携帯番号は知られたくない。だけど番号非通知でかけるのは、お世話になった側の人としてどうだろうと思った。苦渋の策だ。
『――遊びに行く気になった?』
上原くんは、迷いもなくツーコールで電話に出ると、待ち構えていたように言った。わたしは自分の考えが正解だったと気づいて、カッと頭に血が上りそうになる。そして、電話越しに聞くと妙にいい声に聞こえるのは一体なぜ。
身体を這い上がるムズムズをこらえつつ、わたしは受話器に向かって文句を言った。
「違います。単なる問い合わせです。――あれ、わざとでしょ」
『なんのこと?』
「トマト! わざともう一箱置いて行ったんでしょって言ってるの!」
忘れ物――しかも生ものとなると、急いで連絡せざるを得ない。それを狙ったのが、きっと上原くんの企み。
『あれ、間違って下ろしたんだ。あのあとスーパーで買い直したから、あんたにやるよ』
すっとぼけた言葉にムッとする。
「さすがに二ダースは食べられない!」
『いけるいける。冷蔵庫があるだろ。三人家族で一人一日二つ食べたら、四日でなくなる』
「簡単に二つって言うけど、あれ一つでも結構大きいよ!? それに父は食べないし、母も二つは食べてくれないし」
『じゃあ引き取りに行くけど?』
うなずきかけてはたと我に返る。――となるとまた会う口実となってしまうけど……いいの?
昨日までの迂闊な行動を反省していたわたしは、そうはさせないと言葉を飲み込んだ。すると上原くんは小さくため息を吐く。
『うーん、警戒レベル3ってとこか。まだまだだな』
「警戒レベルってなに」
『ま、いいや。――近所に配るとかしておいて。じゃあ、また』
あっさり電話を切られそうになってわたしは驚く。
だから、なんで、切っちゃうの!?
またって言うけど、次の約束とか、普通、ここで取り付けない? だって、上原くん、わたしの番号も、メルアドも知らないよね!?
いくらでも付き合うって言ったし、連絡先も渡してきたし、あれで終わりって感じはしなかった……と思う。
わたしが混乱している間に、通話の終わりを告げるように、彼の声が遠くなった。それがわかったとたん、
「ま、待って!」
とっさに口から出た言葉にわたしは真っ青になる。
待ってって、言った!? わたし、なんで引き止めてるわけ!?
『何?』
上原くんの声が戻ってくるのにホッとしながらも、わたしは焦った。
引き止めたからには、なにか言わないと――。
「――ひ、ヒラメ! ヒラメ、食べに連れて行ってくれるって言ったよね? いつ?」
わたしの口から出てきたのは、我ながら情けないことに、そんな食い意地の張った言葉だった。
上原くんが受話器の向こうで噴き出した。
『ヒラメヒラメって……そんなに好きなわけ』
苦笑いが見えるようだ。耳まで赤くなりながらも、「う、うん」とわたしは認める。今、彼を引き止めたのには、どうやら別の理由が混じっていた。それを彼に悟られたくなかったのだった。
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