第3話

「北風よ、直井病院の前に食堂があったのを知らないかい?」と近藤君が言った。杉山、中村両君が頷いた。直井病院というのは精神病院である。大学から寮に帰る石井街道沿いにあって、大谷石で作られた古めかしい建物である。街道から引き込みの道がある。その角にその食堂はあった。

 寮は夏休み、冬休みとかの長期休は賄いが出ない。みな帰省するからである。残っているのは、アルバイトで帰れないとか、旅費まで飲んでしまったかという連中だ。それと寮長は帰れない。学生運動が派手な頃で、寮長は退学処分に処せられ、副寮長の私が寮長代理をすることになって、その年の夏休みは帰れなかったのだ。


 食堂と言っても、小さな平屋建てで、何屋と言っていいのだろう、中華料理屋になるのだろうか?如何せんメニューが極端に少ない。メニューが少ないというより、全然店をやる気がないのだ。大学に近いと、もう少し昼間は学生で賑わうのだろうが、少し中途半端な距離にある。そこで夫婦は餃子を作って市内の店に卸すことを始めたのである。餃子を作り配達を終えた亭主は店をやらない。奥の座敷で近所の学生や仲間を集めて好きな麻雀にふける。店は女将さんだけとなる。それでメニューが少ないというわけである。

 私はサボっていた農場実習の単位を取るため、毎日学内の農場に通っていた。その帰りに夕食はそこでした。帰り道に何軒かは食べるところはあったのだが、そこの野菜炒めと餃子は定評があったのだ。でも、毎日なら飽きる。他に注文できるとしたら、ラーメンぐらいなもので、それを女将に言うと、「食べたいオカズを買ってきて、ご飯を注文しらいいわ」と言ってくれた。トンカツを買ってくると、キャベツの細切りを添えてくれる。女将は、辛口の顔立ちで素っ気なかったが、優しかった。

 夏休みもお盆に近い頃にはほとんど人気もなく、普段が賑やかな分、夜の寮舎は灯るあかりもまばらで淋しいものだった。


 野菜炒めと餃子以外にお目当てがあったのだ。それはその年の春、女将の遠縁にあたるとかいう若い娘が店を手伝うようになった。昼間は学食を使えば良かったのだが、少し歩いてもその食堂を使った。アルバイトの帰りに、店の仕舞う時間少し前にその食堂に入ったことがあった。いつになく店は賑わっていた。例によって野菜炒めと餃子とライスを注文した。後から3人連れがどやどやと入ってきた。その3人には注文品が出されたのだが、私には出てこない。注文を忘れたのではないかとその娘に言うと、てっきり当たりであった。ご飯が切れて出せるのは餃子しかないという。他ももう仕舞っているだろう。仕方ない餃子を2人前食べて寮に帰った。

 その次、行ったとき、注文してないのにビールが1本付いていた。注文してないというと、この前のお返しだという。それが親しく口を交わすきっかけになった。親しくといっても女将の目もある。「今アルバイトのお帰りですか」と訊かれれば「今日の仕事はキツかった」とか「今日は家庭教師のアルバイトだった」とか、そんな程度だった。

 誘い出し?私にはその頃大阪で付き合っている彼女がいた。私は二股かけられるほど器用ではない。でも、遠い彼女よりは近い娘に関心が行くのも仕方がない。娘はそんなに美人でなかったと思う。美人なら必ず学生たちの話題になった。ただ、なんとなく寂しげな表情、そして笑った時の一転した表情が私を引きつけた。そして娘は小ぶりで華奢であった。私は華奢な躰つきに弱かった。


 その夏の日、その娘に盆踊りを誘われたのである。娘の名前を思い出せない。名前を聞いたとき、「ナッパの菜」とか言ったのは覚えている。菜穂子だったか、人の名前は間違ってはいけない。やはり娘としておこう。

 盆踊りといっても直井病院が年に一度催す盆踊りである。地域との交流を兼ねて院の中庭が解放される。その頃の精神病院は全く閉鎖的であった。盆踊りは中央に櫓も作られ、模擬店も出される本格的なものらしい。患者さんも看護婦さんも参加し、物珍しさもあって結構な賑わいだという。浴衣なんて持っていなかったが、勿論私はオッケーした。約束した時間に門のそばに娘はすでに浴衣姿で待っていた。

 子供たちの浴衣姿もあって、あまり広くない会場だが、想像以上の混雑だった。こうして踊っていると誰が患者さんだか分からない。もっとも、白い看護婦さんはすぐわかる。

私は精神病院がやはり珍しく、しばらく建物や踊りの輪を見遣っていた。

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