第百三十八話:迷宮最深部へ
アル=ハキムが死んだ。
つまり、
もっとも今現在の暗殺教団にどれだけの人員が残っているのか。
生きている者を数えた方が早いだろう。
泣いているアーダルの肩をそっと抱くイシュクル。
「泣くな。ハキムはいずれこのような時が来ると予期していた」
「でも、イシュクルさんは悲しくないんですか」
「ダークエルフと人では寿命が違いすぎる。何時だって俺は見送る側だった。今回もそうだというだけの話だ。思っていたよりも少しばかりお迎えが早かったがな」
気丈に振舞うイシュクルの声は、わずかに震えていた。
「ハキムに託された遺言を、ここでアーダル、お前に告げる」
「遺言ですか?」
イシュクルはアーダルに向かい、凛とした声ではっきりと言う。
「アサシンギルドは本日を以て解散とする。生き残った者は、己の思う自由な道を進め。それが、アル=ハキムの最期の言葉だ」
「解散……」
「アル=ハキムは自らの代でアサシンギルドを終わらせる決意を固めていた。本当はもう少し、後になってから宣言するつもりだったが、もはやこのような事態になっては仕方あるまい」
「イシュクルさんが後を継ぐというのは」
問われると、イシュクルは頭を掻いて苦笑いを返す。
「俺は人を率いるなんてガラじゃない。誰かの補佐をする方が向いてるのさ」
イシュクルが次の言葉を言おうとした瞬間、突如彼は凄まじい形相で振り向いた。
その視線の先にあるものは、アル=ハキムの遺体である。
遺体から放たれる異様な雰囲気に、誰もが気づいていた。
ハキムの遺体から、するりと人魂が抜け出て立ち上がる。
青白い魂がゆらりとこちらに向いた。
ハキムの魂が遺体から離れたのだ。
それすなわち、蘇生がもはや不可能になったことを意味する。
「ハキムさん……」
一般的に、亡霊とは意思疎通が不可能な場合が多い。
霊は思考がぼんやりとしており、生前に強烈に執着していたものでもなければ虚ろに徘徊するばかりだ。
だがハキムの霊は、にやりと笑いこちらへと真っすぐ向かってくる。
行き先はアーダルのようだ。
「何をするつもりだ!」
警戒し、俺はアーダルの前に立ちはだかる。
『そう邪険にしないでくれないか』
ハキムの魂は、はっきりと告げた。
『私は最後に伝えたい物がある。この状態で現世に居られる時間は残り少ないのだ』
「本当か? 体を乗っ取りたいとか思っていないだろうな」
『疑い深いな。三船君、君との約束を果たした私の事を信じてほしいものだ」
「もし勝手な事をしたら、わたしが即座に昇天させるから大丈夫よ」
『やれやれ、信用がないな』
ハキムは苦笑すると、霊魂なので当然だが音もなくアーダルの目前に立つ。
『手を出してくれ』
「はい」
差し出された手の上にハキムが手を乗せる。
もちろん霊魂なので直接的に触れはせず、半ば内部に手が入るかのように重なった。
『私の影技は、この世ならざる者である<闇人>なる者から教わり、受け取った』
「受け取った?」
『そう。言わば影を異形と変じさせ、自らに従えさせる技でもある。異形と変じさせるには闇人から伝わる秘術が必要であり、それは適性がなければ暴走する』
適性が無ければ暴走してどうなる、という疑問を口にする間もなく、ハキムの手から影らしき黒いものが伸びてアーダルの体にからみつく。
そして地面に移る影の下に移動すると、にやりと口だけの笑いを作って影は溶け込んで同化していった。
「アーダル、痛みや苦しみはないか?」
「全くないですね。驚く程に普通です」
『試しにアーダル、眼を瞑って集中し、影をもう一人の自分だと思い込め』
そう簡単にできるものなのか。
アーダルは言われるがままに目を瞑り、深呼吸して自然と手に何か印を組んでいる。
すると、アーダルの影がにわかにアーダルの動きに追従せずに動き始める。
更に影は平面から立体となって立ち上がり、もう一人のアーダルのように動き始めた。
いわゆる影分身とは違う、本当の意味での分身と言えるかもしれない。
『素晴らしい。やはり君には影を使う才能がある。現世から消える前に伝えられて良かった』
更に、影はこれまで出会った魔物の姿をも取り始めた。
コボルト、オーク、はたまたヴァンパイア、その他。
影は分裂し数を増やす事すらできるようだった。
今はまだ数体だが、訓練すればもっと影を操れるようになるのだろうか。
「僕の遭遇した魔物の姿や戦いぶりも影に覚え込ませて操作できるみたいですね」
「さながら百鬼夜行だな」
貞綱が言うと、アーダルはぱんと手を打って頷いた。
「百鬼夜行、いいですね。何時か使えるかも」
『では、私はこれにて失礼する。後は若者に託すとしようか』
アル=ハキムはこれまでに見せた事のない微笑みを浮かべた後、徐々にその姿が薄れていく。
一瞬だけ、鎌を持った死神の姿が彼の隣に見えた。
きっと彼の行く先は天国ではないだろう。
だがその顔に、後悔の色はない。
「……イシュクル、お主はこれからどうする」
言うと、イシュクルはどこか虚空を見つめるような眼差しになり、溜息を吐いた。
「まずはハキムと教団の仲間たちの遺体を丁重に埋葬する。あとは、それ以外の死体の後始末だな……」
イシュクルには大きな仕事がまだ残っていた。
流石にそれを手伝うほどの時間の余裕は、俺たちにはない。
「気にするな。仲間の埋葬には寺院の奴らを引っ張り込む。あいつらもなんだかんだで教団と繋がりがある。無下に断りはしないだろう。そして他の死体の処理には、うってつけの連中がいる。あとはそいつらに任せるさ」
死体の処理、と聞いて俺はある存在が浮かび上がる。
確かに処理はできるだろうが、死んでもなお使役される羽目になるとは酷い末路だ。
「お前らは心置きなく迷宮に踏み込んで主を討伐して、ゲートを封印しろよ。そっちのほうがよっぽど大仕事だ」
「ああ、分かってる」
「じゃあな、アーダル。迷宮から戻ってきたら顔くらいは見せてくれよ。国を出る前に」
「……はい」
イシュクルももはやこの国には居られない。
これだけの王国兵を殺してしまった以上、死刑は免れないだろう。
次に会った後は、何時出会えるかもわからない。
永遠の別れになるかもしれない事を想い、アーダルはまたも涙する。
「泣くんじゃねえよ。泣くのは全てが終わってからだ。それまでは歯を食いしばり、心の中だけで泣け。何があろうとも表面上は平静を保て。それが忍びってものだろう」
アーダルは頷き、涙をぬぐう。
その顔はすでに一人前の忍びの顔つきになっていた。
* * *
俺たちはイシュクルに見送られ、暗殺教団を後にする。
迷宮の地下十階にまっすぐ向かうかと思えば、さにあらず。
「皆、戦闘で消耗したじゃろう。とはいえ、宿屋で休息を取っている時間はない。だから儂の部屋に一旦寄ろう。とっておきの物を引っ張り出すわい」
フォラスに言われるがままに、一旦地下六階にあるフォラスの居室へ転移する。
部屋に入ると、早速フォラスは
そして隠し床の中から取り出したものは、
それは薄く、青く色づいている。
「それは?」
「かつて世界にはユグドラシルという、あの世とこの世、そして冥界を一本に繋ぐ世界樹があったと言われている。その世界樹の朝露を集めたと言われる雫だ。活力の源となる」
「でも今はユグドラシルの痕跡も無いわ。本当に存在したのかしら」
ノエルが疑いの眼差しでフォラスを見るが、彼はわかっておらんなと言わんばかりに鼻で笑った。
「本物か偽物かは今は重要ではなかろう。要は、これを飲めば即座に傷も治り疲労も取れ、マナの回復や状態異常すらも元通りになるという優れものだと儂は言いたいのだ」
「なんだ、それなら早く頂戴よ。慣れない接近戦なんかやって疲れちゃったんだから」
「そうせかすな。貴重な代物には代わりないのだ。零したりしたら勿体ないからな」
瓶から、世界樹の雫を碗の中に頂戴する。
透き通る水色のそれは、薄暗がりのなかでもほのかに発光している。
雫の中には時折、何かが煌めく様子もうかがえた。
ぐっと一気に飲み干し、ほうと息を吐いた。
食道を通り、胃の腑に到達した瞬間、体の隅々に行き渡るものを感じた。
その後すぐに、体の様々な部分にへばりついた疲労が一瞬にして嘘のように無くなり、なおかつ体が非常に軽く成ったように感じた。
「こんなに即効性があるとは、ヤバい薬ではないだろうな?」
「世界が崩壊するかどうかの瀬戸際で、そんな戯けたものを出したりはせんわ。ほれ、最後の一瓶を鞄に入れていけ。これも分ければちょうど五人分にはなるじゃろう」
皆が飲み干し、疲労と魔素の回復もした所で改めて地下九階に向かった。
地下九階から、例の落とし穴のある所へ行く。
埋葬された典玄の墓を拝み、落とし穴を改めて眺める。
人を殺す為の落とし穴とは異なり、下の階層に繋がっているはずの落とし穴は、その行き先が全く見えない程に真っ暗な口をぽっかりと開けている。
「皆、覚悟は良いか。一度降りたら迷宮の主を倒すまでは戻ってこれないぞ」
仲間の顔を改めて、ひとりひとり見つめる。
「何言ってるの。例え奈落に落ちる羽目になっても宗一郎とは一緒に行くに決まってるじゃない」
「正直、僕は怖いです。でもそれ以上に、ミフネさんと一緒に迷宮を踏破したい。これは嘘偽りのない、本音です」
「儂は五百年前から覚悟は決めておる。時が至るのをひたすら待つ方がしんどかったわ」
「某は若と共に冒険が出来るのを嬉しく思います。それに世界を救うと言う大義名分も付くとなれば、尚更やりがいもありましょう」
誰もが覚悟を決めていた。
なればこの先へ行かぬ理由はもはや無い。
一息に、落とし穴に飛び込んでいく。
自由落下に身を任せ、ただただ落ちていく。
いつ下の階層に落着するのであろうか。
落ちる。
落ちる。
落ちる。
上を向いても、横を向いても下を向いても落下する景色は真っ暗だ。
一体俺は今どこにいるのだろう。
この落とし穴というものは、単に下に向かっているだけではないように感じられる。
落下していた筈がいつの間にか横滑りしていたり、はたまた昇降機で上に行くときのような内臓を持ち上げられる感覚を覚えたり、軌道がよくわからない。
他の仲間は無事だろうか。
無事であれば良いが……。
無事であってほしい。
ただひたすら、落とし穴を落ちている間は思う事、考える事しかできなかった。
「……!」
気づけば、いつの間にか俺たちは床に転がっていた。
気を失った覚えはないはずだが。
どうやら地下十階に無事に辿り着けたらしい。
そしてすぐに、この階層が迷宮においてもっとも異様な空間であることを思い知らされる。
「むせかえるような血の匂い……」
石造りの迷宮最深部は、既に血で至る所を染められていた。
古い、錆び付いた血が跳ねた壁や床もあれば、今しがた流された血によって朱に、あるいは魔物の血と思われる青や紫、緑などで禍々しく血塗られている。
血だまりが至る所に出来ており、一体どれだけの魔物や侍、そして王国兵たちがこの場所で命を落としたのであろう。
新しい死体が山となって通路の至る所に積み重なっている中、古い死体も未だ残されている。それは風化し骨となり果てており、それもまた至る所に数多く転がっている有様だった。
願わくば俺たちは、この中の一つにならない事を祈るばかりだ。
「壁に何か書いてあるな」
貞綱が見つけた、走り書きのようなものがあった。
それを読んでみる。
”これより先に踏み込む者は蛮勇ですらない、愚か者なり。
心せよ。
そなたらがこの先へ踏み込み、魔物や我らが護衛の群れを突破した所でけして生き残れはしない。
そなたが最深部で目にするものはこの世ならざる者、鬼神なり。
相対するもの全てが無惨に殺され、死体を晒して来た。
苦労を重ね迷宮の最深部に降りて来た、哀れな冒険者どもよ。
上に戻る術はもはや無し。
行く先は地獄なり。
鬼神の供物となるのが望みなら、せいぜい先へ進むがよかろう……”
その走り書きの下には、恐らくこれを書いたであろう侍の死体が座り込んでいた。
既に死体は風化し、骨となっている。
「ここに踏み込んだ時点で、鬼神と戦う覚悟は出来ている。供物になるつもりもない」
俺は侍であった者に言う。
なれば進め、地獄の先へ。
さすれば億に一つ、兆に一つくらいの幽かな希望があるやもしれぬ。
その希望が陽炎の如くゆらぎ消えぬ事を祈り、行くがよい。
侍の骨は、微かに笑ったかのように俺には見えた。
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