第百二十九話:見つからない階段
魔術師が前に出るという事は、普通なら有り得ない。
なれど大魔術師を自負するこの老人は、自ら敵の眼前に躍り出た。
小部屋の空気が陽炎のように歪み、俺たちの身を焦がしていく。
如何に
フォラスは熾天使に向け、詠唱を始める。
――汝の力を我は希う。時を司り、空間を操る者よ。眼前に立ち塞がる敵を、其の力を以て縫い留め給え――
その詠唱は口だけで唱えるものとは異なり、呪文と共に印も同時に結ぶという風変りなものであった。
フォラスの身振り手振りと共に、彼の目の前に魔法陣のような図柄が浮かび出す。
完了と同時に、その魔法陣は輝きを放った。
――空間固定――
以前、不死の女王も空間を固着するとかいう魔術を使い、俺の刀を止めた事があった。
だがあれは範囲が非常に限定的だったのを覚えている。
指の間のわずかな隙間しか空間を操れなかったのだ。
だが、フォラスの魔術は違う。
熾天使の周囲の空間が、透明な箱のようなものに覆われているのが光の屈折の具合で見てとれた。
熾天使はいままで俺たちをどう料理してやろうかといった感じの態度であったが、身動きが取れなくなった事で初めて狼狽え始めている。
「続けて行くぞ」
更に詠唱を紡ぐフォラス。
今度は杖を相手に向け、呪文のみを唱える魔術だ。
――全ての根源の一つ、水を司るものよ。その力を以て大渦の呼び水となる大海原を、今この場に繋ぎ給え――
――
詠唱が終わると同時に、フォラスの目の前に空間の裂け目が現れる。
すると今度は大量の水が熾天使に襲い掛かる。
もちろん熾天使が纏っている強烈な炎の熱によって、海水は蒸発し蒸気へと変わっていく。
蒸気が部屋に充満しはじめ、俺たちはたまらず小部屋の二つの扉を開けて蒸気を逃がす。
空間の裂け目から渦を描き、海水は熾天使に途切れなく襲い掛かっている。
それはまさに、海流によって姿を見せる、海の大渦が如く。
如何なる炎であろうとも、自身が持つ熱量よりも大きな質量を持った水を被れば鎮火しない事は無い。
やがて空間固定の効果が切れて動けるようになった熾天使だが、あまりにも大量の水を受け続けた事によって、その炎の勢いは遥かに弱まっていた。
炎の灯りによっておぼろげにしか見えなかった、蛇に三対六枚の翼である姿がより露わになる。
「今が好機、あいつを倒すぞ」
とはいえ、如何に弱った熾天使であろうともその名に恥じぬ動きを見せる。
口からは荒れ狂い渦巻く炎の鞭を撒き散らし、その目からは視線を合わせた途端に発火する不思議な光を放つ。
さらには、その羽から虹色の光が四方八方に発射される始末。
炎の鞭と発火光はともかくとして、虹色の光は間違いなく
あれだけは喰らうわけにはいかなかった。
それらが乱舞する中を潜り抜け、肉薄する俺とアーダル。
しかしアーダルは炎の鞭に巻かれてしまう、が。
「呼っ」
瞬間、アーダルは護身勁を用いて巻かれた炎を受け流し、高速回転してそのまま勢いに乗せて炎を振り払って散らし、難を逃れた。
炎の鞭を吐いていられる時間はそれほど長いわけではなかった。
よって、アーダルは炎の鞭による火傷を最小限に抑え込めた。
次いで、ノエルの
「ちっ、姿形だけ天使を模っているかと思いきや、奇蹟は通らないとかいいとこ取りしてるって感じね」
仮にも天使? という訳か。
「派手に暴れおって、動くな!」
フォラスが印を結んで再度空間固定を唱える。
熾天使はフォラスの詠唱から逃れるべく、老人に攻撃を仕掛けようとするがその前にまたも空間に体を固定されてしまった。
「我が詠唱は文言圧縮と省略を施している。詠唱を止めようと思ってもその時には既に遅い」
なるほど、時に言葉が二重に聞こえたり早口に聞こえたりするのはそう言う訳だったか。
大魔術師ともなれば詠唱一つとっても他者とは比べ物にならない。
「おおっ!」
俺は疾風の如く熾天使に近づき、蛇の頭と胴を薙ぎ払い切断した。
熾天使は浮いていた宙から地面へと音もなく落下し、その頭は何度か口を開けては閉じを繰り返している。
その後静かに黒い灰へと変わり、塵となって虚空へと消えていった。
熾天使が消え去ると、小部屋の中に渦巻いていた熱気も急速に冷えていく。
何時の間にか、ひやりとした洞穴の空気へと戻っていた。
「それにしても、空間を操る魔術とは恐ろしいものですね」
俺が舌を巻くと、フォラスは珍しく胸を張り答える。
「如何な存在であれども、この三次元空間に存在する限りはその制約を受けるものだ。それらを一時的に操作する事で敵の自由を奪い、或いは自らに掛かる制約を解き放ちより自由に動けるようにもなる」
それらの制約を受けぬ例外こそ、まさに高次元存在たる神なのであろう。
さて、熾天使を倒した後、探索を進めるとさらに小部屋を幾つか通った。
それらの部屋はいわゆる玄室と呼ばれるもので、魔物が侵入者の襲撃に備えて守っている。
いずれも、それほど苦労する事なく倒せたが。
遭遇したのは、まず迷宮深層に順応した冒険者の成れの果てたち。
熟練した戦士、僧侶、魔術師、盗賊、中には司教。
封印された階層に辿り着き、なお今まで生き延びた者達だけあって、彼らは上層にいる成れの果てと比較にならぬほどの手練れであった。
それでも、迷宮に順応したと言う事は同時に人としての正気を失っているのも意味する。
正気を失った者の攻撃は、作戦というものは無く単純なものであった故に、今の俺たちにはそれほど脅威にはならなかった。
次に複数の獣が融合した魔物、
これは前に出会ったものであり、その時の事を思い出して戦えば苦もなく退治できた。
迷宮に何故か存在する
そして忍者。
彼らは間違いなく、かつて三船家に仕えていた者達であろう。
忍びの者達は流石に他の侍たちとは異なり、精神を正常に保つための鍛錬を行っていたからであろうか、正気を保っていた者が多かった。
だが、あくまでも彼らは自らの主を守る為に共に迷宮に潜っている。
現当主の生き残りかつ、その子孫である俺が来たことは、むしろ追っ手として彼らを根絶やしにする為としか見られていなかった。
三船家が日ノ
とはいえ、五百年も逃亡してきた以上、現状認識を改めるのは難しいのだろうな。
故に戦うしかなかった。
こうして探索を進め、一通り行ける場所は歩き回った。
地下七階や地下八階とは異なり、階層に仕掛けが施されていない分、探索は速やかに進んだのだが、やはり下へ向かう階段は見つからない。
隠し扉の類は存在しなかった。
かといって、未踏破領域と思われる場所に
石の中に埋まる危険を犯してまで迷宮の地図を隙間なく埋めようというのは、狂人の所業である。
探索中に時折、血まみれになって倒れている魔物の死体にも遭遇した。
どの死体の傷も、打撃によって負ったものであった。
恐らくは影法師の仕業であろう。
地図で言うと、ちょうど右半分の所の玄室でその死体たちを見ていた。
俺たちは階層の左側から探索を始めたのに対し、影法師は右側の経路から探索を始めたのだろう。
故に鉢合わせなかった。
ここで会わなかったのが果たして幸運か、不幸かはわからない。
「下に降りる階段はどこぉ?」
不意に、ノエルがしゃがみこんで床を指でいじりはじめる。
明らかに疲れていた。
「休憩にしようか」
魔法陣を描き、その中で茶を飲みながら虚空を見つめている。
アーダルは忍者になったとはいえ、隠し扉、床に対する感知能力は依然として優れている。
その彼女が感知できないとなれば、そこにはないのであろう。
では一か八か、地下十階を目指して空間転移を行ってみるか?
「その案は却下だな。命を対価に博打を打つような真似は、愚か者の蛮勇だ」
フォラスの当然の反論であった。
あらかた行ける所は行った。
怪しいと思われる所は再度行って確認したものの、やはり何も無い。
皆が首をひねっている。
迷宮の構造が変わったにしても、最下層でもないというのに下に行けないのは明らかにおかしい。
…………。
いや、待て。
俺は重大な勘違いをしていたのかもしれない。
地下九階の道が記された妖精の地図を穴が開く程に見つめる。
そして、何故今まで気づかなかったのかと俺は頭を叩いた。
「何かわかったんですか?」
「ああ。まだ俺たちは、固定概念に取りつかれていた」
即ち、下に降りる為には階段や縄梯子のような、昇降する為のものが必ずあると言う思い込みだ。
「昇降機の近くに居た、典玄の所へ行く」
「あそこは落とし穴があった場所でしょ? ……落とし穴。まさか」
ノエルもはっとした様子で気づいた。
「そう言う事だ。地下十階に行く為にはその落とし穴を経由するしかない」
落ちた所で、上に戻れる保証は全くない。
まったく、恐れ入る構造になってしまっているものだ。
そして俺たちは急ぎ典玄が居る小部屋へ戻る。
そこで見たものは、凄惨たる光景であった。
「典玄……」
立て看板の隣に座っていた典玄は、いまや血まみれに倒れており虫の息であった。
恐らく影法師にやられたのだろう。
「宗一郎さま、ですな」
典玄は息も絶え絶えに喘ぐ。
「初めに出会った時、貴方様を欺いた事をお詫びします。申し訳ありませぬ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます