外伝四話:嫉妬と怒り
影法師の傷は、致命傷には見えない。
皮膚を斬り裂いたくらいで、まだ十分に動けるように見える。
しかし、傷を負った事で人から獣へとその本性を露わにする。
影法師はその名の如く、自らの影の中に徐々に潜り込み、消える。
影は無数に増えて闘技場の地面に広がり、どれに影法師が潜り込んでいるのかさっぱり掴めない。
わたしもアーダルも行方を追いきれない中、傍らの忍者は頭を掻きながらぼそっと呟く。
「後ろだ馬鹿。もっと気配を探れ」
「っ!!」
アーダルが気づき、振り向いた時には既に遅かった。
ひとつの影から浮かび上がった影法師の右拳が、アーダルのお腹に深々とめり込んだ。
「うぐっ」
めり込んで更にアーダルは高々と宙に浮く。
そこから立て続けに影法師は跳躍する。
ただの人間には成し得ないほどの跳躍で、浮いたアーダルを手刀でそのまま地面に叩きつけながら着地する。
着地の瞬間、影法師からあふれ出る禍々しい気が爆発的に噴出し、それがわたし達の肌をびりびりと震えさせた。
「がはっ!」
アーダルは血を吐き、くの字に体を曲げる。
更に影法師は喉を突こうと左手を振りかぶっている。
「そこまでだ」
その瞬間、忍者が二人の間に割って入った。
影法師の左手の手刀が、アーダルの喉元あたりで寸止めされている。
あと一秒でも遅ければアーダルの喉は貫かれていただろうな。
いつの間にか、影法師の禍々しい殺気は消えうせていた。
「我が境地にはまだ遠し。うぬが秘めたる力はその程度ではないはず。もっと相手を殺すつもりで掛かって参れ。でなければ、死あるのみ」
「お前、本気で殺そうとしていただろ。殺したらハキム様になんて言い訳するつもりだ」
忍者の言葉に、やはり無表情のまま影法師は答える。
「我との立ち合いは即ち命のやり取りを意味する。アーダルとて、それを理解して我に立ち合いを望んだはずだが」
「……まあ、いいがね。おいアーダル、まだ生きてるか」
血を口から流してアーダルはお腹を押さえながらも、何とか膝立ちになる。
「な、なんとか……げほっ」
「いかんな、内臓にダメージが入ってる。ノエルとか言ったか、回復の奇蹟を頼む」
「人使い荒いじゃないの。まあ回復するけどさ」
わたしはアーダルに近づき、お腹に手を触れて
手のひらから光が溢れ、お腹の中に入り込むと瞬く間に殴打の痕は消えた。
そしてアーダルもひょっこりと立ち上がる。
「あぁ、痛かった。ノエルさんありがとうございます」
「これが僧侶のお仕事だもの、気にしないで」
「本日の修練はこれで終わる。我は用件がある故、しばらく
影法師はそう言って、また影に消えた。
あの人は危険ね……。
純粋に強さを求めている。
飽くなき強さへの渇望が、怨嗟と殺意を背負ってしまう原因になっている。
いつになるかはわからないけど、絶対に宗一郎とぶつかる時が来る。
そんな風に思えてならない。
「影法師さん、やっぱり強かったなぁ」
「それでもあいつなりに手加減はしていたようだがな」
「あれで? おっかないですねもう。そういやノエルさん、なんでここに?」
「アーダルとちょっと会いたいなって思ったら、ここに案内されたのよ。でも凄い戦いだったわね」
わたしが言うと、アーダルは照れ笑いする。
「いや、全然まだまだですよ。せっかく忍者になったんですけど、やっぱり盗賊の頃とは体の使い方が全然違って、まだ慣れてないですね」
「そうなの?」
「ええ。盗賊時代は後ろから支援する事はあっても、前衛に立って能動的に戦う事は少なかったので」
「と言っても、盗賊の迷宮では前衛に立って戦ってたんじゃないの?」
「あの時は、僕とミフネさんしか居なかったからですよ」
アーダルはうつむき、ぽつりとつぶやく。
「もっと修業しないと。ミフネさんと並び立って戦うのが夢でしたけど、これじゃまだ足を引っ張りそうだ」
だから早く強くなっていかなきゃいけないんです、とアーダルはまっすぐわたしを見つめた。
その眼は決意に満ちていて、宝石のように輝いている。
アーダルのその顔が眩しくて、だからわたしはとても胸を締め付けられた。
思えばわたしは、冒険の時は大体後ろの列に立っている。
わたしは頑強な僧兵ではない。
回復や支援を望まれている立場だ。
わたしが前に出るような時は、既に緊急事態でパーティは半壊しているだろう。
そのような時を迎えてはならない為にも、わたしは仲間の傷を癒し、支援をして万全の体勢に整える事こそがわたしの役目。
それは間違っていないはず。
なのに、隣に並び立って宗一郎と戦える彼女が無性にうらやましくなった。
「頑張ってね」
「あれ? 僕に何か用があるんじゃなかったんですか?」
「ごめんね。わたしもちょっと用事を思い出したから」
かろうじて雑な言い訳を捻りだすのが精いっぱいだった。
わたしは駆け足気味に闘技場を後にした。
後ろに首をかしげているアーダルと、目を丸くしている忍者を残して。
* * *
外に出ると、既に日が暮れようとしていた。
馬小屋に戻ると宗一郎も帰って来ていて、夕飯を作ろうと鍋に湯を張っていた。
「ノエルじゃないか。どうしたんだ」
わたしは宗一郎にアーダルに会った事を告げ、その際の修業の内容を語った。
すると宗一郎は、少しばかり眉をひそめる。
「強くなろうとしているのは良い事なんだがな」
「何か気になるの?」
「もちろん、強くなるのは戦力向上に繋がるからとてもありがたい。しかし、少しばかり気負い過ぎてる気がしてな」
「気負い?」
「ああ。アーダルは俺の戦いを後ろから見ている時が多かった。役に立てないと思って歯がゆい時間を過ごしていたと感じていたのだろう。俺からすれば、盗賊には居てもらった方が有難いのだがな。職能が違えば持っている技術も違う。やれる事が違うのは当たり前だろう?」
「そう、なのよね」
人によって、職によってやれる事は違う。
それは至極当然なんだけど、妙にその言葉はわたしの心をかきむしる。
「アーダルは焦らないで着実に力を付けてもらえればいいんだがな……」
宗一郎は顎に手をやって短く整えている髭を撫でつける。
わたしは、言うべきか言わざるべきか迷っている言葉が喉元まで上がっていた。
これを言ったら、多分気まずくなる。
言わない方がいいんじゃないだろうか?
しかし、どうしても衝動に抗えなかったわたしは、ついに言葉にしてしまった。
「アーダルはさ、宗一郎の事が好きなのよきっと。だから力になりたくて、役に立ちたくて今無理をしてでも強くなろうとしてると思うんだけど」
口にした瞬間、時が止まったようにしんと静まり返る。
宗一郎は髭を撫でる動きを止め、口を真一文字に結んで唸った。
数十秒か、それ以上に無言の時が続いたように思う。
「……どれくらい想っているのかは知らないが、俺が好きな事は知っている」
「なんで好きだってわかるの?」
「盗賊の迷宮の主になっている奴と戦った時にわかったんだ。とはいえ、アーダルの口から直接聞いたわけじゃない。そこの迷宮の主がアーダルの心を読んだからだ」
「だから、どれくらい好きなのかわからないって言ったのね」
「でも、流石に俺から好きなんだろう? と問うのは違うと思うから、あえて聞いてはいないんだ。いずれアーダルの口から言ってもらう事のはずだから」
でも、結局あの子が宗一郎が好きであるという事実は変わらないでしょ、という言葉が喉元から飛び出しそうになった。
慌てて口を抑えて飛び出すのは防いだけども、代わりにもう一つ別の言葉を吐きだす。
「いずれ好きだと言われた時、宗一郎は何て答えるの?」
言われた瞬間、宗一郎は髪をかきむしる。
「それは、正直分からない……」
わからない。
わからないって、なんだ。
今ここに、目の前にお前の彼女が居るんだぞ。
嘘でもいいから愛してる人がいるからと断る、と断言してほしかった。
あるいは、二人を愛する覚悟がある、でも良い。
わたしは本命であれば許すつもりではあった。
でもわからないってなんだ。
ふざけるな。
瞬間、わたしは勢いよく立ち上がっていた。
「今日は冒険者の宿に泊まる」
「……あそこは壊れて、しばらく営業しないはずだが」
「じゃあイブン=サフィールに泊まる。宗一郎のつけ払いにしとくから」
「ええ……? ちょっと待ってくれよ」
宗一郎が止めようとした手を振り払い、馬小屋から走り去った。
気づけばわたしはイブン=サフィールの一番高い部屋のベッドに転がっていた。
イブン=サフィールのVIP部屋に無料(無料ではない)で泊まれるなんてさぞかし気分が良いだろうと思ったけど、全くそんな事はないわけで。
宗一郎の煮え切らない態度を思い出すたびに、わたしの腹の底が煮え滾って仕方が無い。
「なにやってんだか、わたし」
感情に振り回されるなんて冒険者失格だし、それに僧侶としても失格だわ。
僧侶なんて私欲から逃れて皆に尽くす事が一番大事だって教わったのに。
でも、この抱いている感情も嘘偽りのない本物の思いで、だからこそ自分に嘘は吐けない。
この思いをねじ伏せられる理性はまだわたしには備わっていなかった。
そして嫉妬は女の本能の中でも根深いもの。
それを制御できるだけの悟りも開いていない。
わたしも未熟だ。
使える奇蹟の多さから、聖女だなんだなんて言われて浮かれていた時もあったけど、これじゃただの浮かれた女じゃないか。
恋心と言う煩悩はかくも度し難い。
わたしは部屋の灯りを消し、目をつむりながら明日からどうするかの考えだけが堂々巡りして、やがて眠りへと落ちていった。
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