第六十八話:かつての記憶

 笑みを作った師匠の口からは、犬歯が見えていた。

 笑みとはかつての原始の時代、敵を攻撃する際にする表情であると誰かが語っていたような気がする。

 俺が知っている師匠の顔とはまるで異なる、獣の顔であった。


 そして師匠は、刀を抜きながら向かってくる。

 さながら吹き抜ける突風の如く。

 大地に根を張った大樹の如く待ち、相手の心の底まで見透かした後の先で挫いてくるのが常だったはず。

 

「がああああああっ!」


 雄叫びを上げながら、袈裟斬りを叩き込んでくる。

 鋭く、重い。

 打刀で受けた瞬間に刀が折れてしまい、慌てて背中から野太刀を抜く。

 次いで横薙ぎの、胴を狙った一撃。

 野太刀を翻して刀を弾くが手が痺れている。

 今までに見た事の無い師匠からの攻め。

 さながらそれは苛烈な炎の嵐の如く。

 様々な角度からの打ち込みを、俺は全て受けるしかない。

 何より攻めに転じる隙がないのだ。

 しかしこの攻めは、むしろ懐かしさすら覚えていた。


 これは昔の俺の戦い方だ。


 攻めて相手を圧し潰すことしか考えていなかった、幼き頃の俺だ。

 何故師匠がこのような戦い方をしている?

 落ち着いて戦えば決して俺に後れを取るような人ではないというのに。

 見れば、師匠は必死の形相をしているではないか。

 

 師匠、一体どうしたというのだ。

 貴方はそのような戦い方をするような人ではなかったはずだ。

 その首を斬ろうと殺意がこもった斬撃も、足を刈るような払い斬りも、心の臓を狙った突きも、何故かわかる。

 師匠の瞳に映っている俺の姿。

 だが、目の前に居る俺を明らかに見てはいない。

 

「ぬううっ」


 殺意を吐き出し、叩き潰そうと一心不乱に刀を振り続ける。

 それは怖れの裏返しのようにも思えた。

 つまり、俺の中に居る鬼だけしか見ていないのか。

 

 ……そうか。そうだったのか。

 それを悟った時、懐かしい記憶が思い起こされていた。




 * * *


 三船家の領土、松原の小さな城の中にある道場。

 木枯らしが吹く寒い季節。

 道場の中に居るのは俺と師匠のただ二人だった。

 建てられて何年経ったのかわからない古い建物で、よく掃除はされているものの建物の隙間はどうしようもなく、隙間風が吹き抜けて外と同じくらい寒い。

 

 なのに、俺は体にひどく熱を持っていた。

 息を荒くし、汗を板張りの床にぽたぽたと垂らしている。

 対面の師匠は息が上がってすらもいない。

 木刀での立ち合いであったが、俺の打ち込みは全て受け流されていた。


「それで終わりか。では此方から行こう」


 師匠の打ち込みが始まる。

 突く、薙ぐ、払う、斬り上げる。

 師匠の太刀筋は精確無比だ。

 俺は受けるのに精一杯で、打ち返す暇がまるでない。

 突きを弾く。

 薙ぎ払いを受ける。手がしびれる。

 足払い斬りを跳躍する。

 そこからの斬り上げを空中に居ながら木刀で受けると、衝撃を受け止める術がないのでそのまま後ろに押される。

 更に師匠の打ち込みは続く。

 捌き続けるうちに、いつの間にか背中に何かが触れる。

 

 壁だ。


 板張りの道場の壁に、いつの間にか背を着けてしまっている。

 下がる空間すら失い、前には師匠が居て、左右に足さばきで抜けようとしてもそこを狙って木刀を振られて移動する隙すらない。

 ひたすらに打ち込まれ続け、手には衝撃が加えられ続ける。

 握力が無くなる。

 ついには師匠の打ち込みに耐えられなくなり、次の一撃を受けた瞬間に木刀を落としてしまった。


 あ。


 落とした木刀に目を向けた瞬間、木刀が振り下ろされる音が聞こえた。

 死んだ。

 間違いなく頭を叩き割られる。

 ぎゅっと目をつぶり、死を待った。

 しかし頭に触れる寸前で木刀の勢いは止まる。


「最後まで諦めてはならぬ。例え死ぬ寸前でも勝つ道筋を探らなければ、侍とは言えぬ」

「……申し訳ありません」


 師匠は落ちた木刀を拾い、俺に手渡した。


「そなたの剣はまさに烈火の如き苛烈さがある。流石は三船の当主の息子だと言えよう」

「はっ」

「しかしそれだけでは勝てん。そなたにはまだ足りぬものがある」

「一体何でしょうか」 


 ――それ即ち、水の心。


 水面に映る月の姿を見るかのように、相手の思考を自分の脳内に反映する。

 その為には心を波立たぬ海の如く平静に保つ必要がある。

 

「そなたは相手を見ているようで見ておらん。表面の動きに囚われているから陽動、偽りの動きに引っかかるのだ」

「しかし、師匠は強すぎて俺にはどれが本当の狙いなのかわかりません」

「少しそれがしと戦いすぎて、既に心が挫けてしまっているな」

「は、はい」

「それでは勝てる物も勝てなくなる。まずは迷いを消し、目の前の敵に集中し心を平らかにするのだ。そして良く見よ。敵を観察し続けろ。さすれば水面みなもに映る月の姿が見えるであろう」


 迷いを消せと言われても、中々即座に消せるものではない。

 師匠の言う事は難しすぎる。

 そのような事が出来るようになった時こそ、剣豪と呼ばれるにふさわしいのだろう。

 まだまだその日は遠そうだ……。

 

 幼き日の頃の俺は、そう思っていた。


 * * *



 

 師匠の姿は、まさに過去の俺そのものだった。

 目の前の俺を見ているようで見ていない。

 ただ攻める事しか頭にない。

 「ケン」を忘れてしまっている。

 そして水の心を失い、ただ一つの火の玉になってしまっている。

 

 それでは勝てるはずがない。

 

 俺はかつて、師匠をさとりという妖怪のような心を見透かす化け物だと思っていた。

 しかし師匠もまた、人間であったわけだ。

 心が乱されれば、例え達人でも容易に崩れていく。

 化け物を倒さんとばかりに気負い過ぎて心が逸っている。

 

 師匠の打ち込みを捌きながら、ひとつひとつ呼吸を整えていく。

 気づけば呼吸すら乱れていた。

 三船流は呼吸を整え、霊気を発生させて体に循環させる事が肝要であるのに、俺の体はそれすら忘れていた。

 心の乱れは即ち肉体の乱れに繋がる。


「奥義・心止観しんしかん


 霊気を巡らせ、更に目への循環を強化する。

 心が平静でなければ使えぬ技でもある。

 相手を観察すると言うのは心が乱れていては出来ぬのだから。

 先日まで俺が見ていたものは、師匠その人ではなく俺の弱い心が作り出した師匠の幻影だったわけだ。

 

 幻影に追われ、惑わされていた。


 師匠が心の平静を失い、必死の形相で襲い掛かって来たからこそ俺は冷静さを取り戻せたのは、皮肉な事だ。

 師匠の動きが更に良く見える。

 

 師匠が踏み込んで来る。

 心臓を狙った突き。

 野太刀の剣先で勢いを逸らして踏み込み、振りかぶって斬り込む。


「むうっ」


 師匠は唸り、野太刀を受けると歯を食いしばった。

 受け流すのではなく、初めてまともに刀で受けた。

 その衝撃は手と腕に伝わり、恐らくしびれが来ているはず。

 日ノ出国ひのいづるくにに居た頃よりも、俺の体は大きくなっている。

 当時でも力だけなら師匠に並ぶと言われていた。

 ならば、今はどうか。

 師匠は体勢を大きく崩し、のけぞった。


「鬼に変じていないというのに、この力……。しかし!」


 体勢を立て直し、なおも向かってくる師匠。


 見える。

 

 視線は何処を見ているか。

 足さばきはどうか。

 そこから刀をどのように振ろうとしているか。

 何もかもがわかる。

 井戸底から這い上がった蛙が大空を眺めているような心境だ。


 それ以外にも思う事がある。

 命のやり取りを師匠と演じた事により、感覚が更に研ぎ澄まされたのではないか。

 稽古はあくまで稽古に過ぎない。

 師匠との立ち合いは、あくまで死なないのが前提の戦いであった。

 命までは取られないと何処かで甘く見ていたのだ。

 

 初めて師匠と命のやり取りをした事でわかるものもあったと言う訳だ。


 

 二つ目の攻撃が来る。

 下からの斬り上げ、腕を斬り落とそうとしている。

 師匠からは動きの起こりすら見えないが、わかる。

 気配までもが読み取れるようになってきた。

 師匠ほどの手練れであれば、その気配も抑え込めるのだが霊気のゆらぎを肌で感じる。

 鬼に変じていた時は肌がひりつくほどにわかるものだったが、もしや戻り切っていないのか。

 何も確証はないが、一抹の不安がよぎる。


 ともかく、二撃目は受け流した。

 受け流された事で大きく前につんのめってきた師匠の腹に、膝蹴りを喰らわせる。

 鳩尾に蹴りがめり込み、くの字に師匠の体が曲がった。


「ぐぶぅっ」


 師匠の口から吐瀉物が吐かれ、地面に零れ落ちる。


「宗一郎……! 何故斬らなかった!」


 吐瀉物を零しながらも、一足飛びに後ろに下がりながら俺を睨みつける。


「先日のお返しです。これで貸し借りはなし、ですよ」

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