第7話 君の声を聞かせて その二
黒川温泉は深い山のふところにある、古い街並みの温泉街だ。まるで昭和に逆戻りしたような、レトロな宿が建ちならんでいた。
自然にとけこむ庭園。
美しい。
どこか、和風ファンタジーの世界に迷いこんできたかのようだ。
「キレイだなぁ。仙人の隠れ里みたいだ」
「そうですね。一週間くらい泊まってもいいな」
「それは、さすがに清美さんが哀れじゃないかな?」
「清美なんか黙って留守番させとけばいいんですよ。どうせ、一人だからって安心しきってオタクなアニメ見まくってます」
その指摘は、あながち間違ってない気がする。
「宿が予約で埋まってないといいけど」
「そこは僕に任せて」
「今回、現金、持ってきてないだろ?」
「どっかにATMコーナーないかなぁ」
そんなことを話しながら、宿の駐車場に入る。降車するとき、龍郎は気配を感じた。小動物の走るような音が一瞬した。キョロキョロしても何も見えなかったが。
「どうしたの? 龍郎さん」
「うん、気のせいだろ。これだけ山のなかだからなぁ。野生のイタチとかキツネとかいるだろうし」
しかし、感じた気配は、それよりずっと小さいような気もしたが。
とは言え、せっかくの青蘭とのハネムーンだ。いいふんいきを壊したくない。
「明日は鍋ヶ滝に行ってみよう。午前中のほうがすいてるらしいからさ。朝イチで」
「うん。龍郎さんといっしょなら、どこでも楽しいよ」
「……急に殺し文句言うなぁ」
古式ゆかしい宿に入ると、予約済みの部屋に案内された。窓から見える庭の景色が、また素晴らしい。しかし、まっさきに龍郎の目に入ったのは、二つならんだ真っ赤な掛け布団のベッドだった。自分でもバカみたいにカアッと体中が熱くなるのを感じる。
(どうしよう。ヤバイぞ。おれ、夜までガマンできるかな?)
ドキドキしながら、ぎこちなく荷物を置く。青蘭が爽やかな笑顔で誘ってくる。
「ねえ、龍郎さん。さっそく……」
「ええーッ?」
「な、何? 急に大きな声で」
「さっ、さっそくって、もう?」
「うん。だって、そのために来たんだよね? 湯巡り」
「あっ、湯……うん。そ、そうだね」
すごく恥ずかしい勘違いをしてしまった。ほんとに、どうかしてる。興奮しすぎだ。
くくッと何かに笑われたような気がした。案内してくれた仲居はとっくに去っている。龍郎と青蘭以外の人影は、目に見える範囲にない。笑い声なんて聞こえるはずないのだが。
宿で貸してくれた浴衣に着替えて、龍郎と青蘭は外へ出た。宿の温泉はあとで入ることにして、時間も早いので散歩がてら観光スポットを歩きながら、手形で入れるよその温泉をまわってみることにした。
明神様の祠や、地蔵堂をめぐり、丸鈴橋からの緑豊かな景観を楽しんだ。
青蘭と二人で歩いていると、いつもすれちがう人の視線を集めるのだが、今日はなおさら注視をあびる。なんだか怖いくらい注目の的だ。
青蘭はちょっと心配そうに、浴衣姿の自分を見おろす。
「僕、変かな? 浴衣って初めて着るんですよね」
そんなわけないよ。君が綺麗すぎるからだ——
もとより妖精のように端麗なのに、今日の青蘭は一味違う。モノトーンのよろけ縞に
それに、今日の青蘭は内から輝くような甘やかさが、全身からにじみだしている。恋をしている人に特有の輝きだ。信頼と愛情に満ちたりている。
龍郎が見とれていると、青蘭がとつぜん走りだした。
「あっ、猫だ!」
「青蘭。ちょっと待って。猫は追っかけると逃げるよ」
「ああ、いなくなっちゃった」
「だから、追っかけちゃダメなんだって」
「そうなの?」
カフェで休みつつ、各所で温泉に入る。湯巡りできる宿は二十四軒もあるから、とうてい全部はまわりきれない。
そのうちに日が暮れてきた。明かりが灯り始めると、ますます幻想的な町並みになる。
幸せいっぱいでデートを満喫していた。が、日没とともに、龍郎はまたあの気配を感じるようになった。なんだか、どこかから見られているような気がする。
「どうしたの? 龍郎さん。さっきから、いやにふりかえってばっかり」
「なんだろう? 誰かにつけられてるような……」
「そう?」
「きっと、おまえが目立つからかな。そろそろ宿に帰ろうか」
「うん」
青蘭が龍郎の腕に両手をからめてくる。浴衣が男物だから、二人が男同士だということは、ひとめでわかる。でも、通りすがりの人にどう映るかなんて、まったく気にならなかった。むしろ、これほどに麗しい人をつれ歩いているなんて、それだけで誇らしい。
するとまた、チッと舌打ちが聞こえてくる。やっぱり、誰かが尾行しているのだろうか?
(なんだろうなぁ? おれ、被害妄想かな? 綺麗すぎる恋人を持つと心配になるって言うし……)
龍郎は自嘲して、宿にむかって歩きだした。
夜は刻一刻と深まる。
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