第7話 君の声を聞かせて その三
宿に帰ると夕食の支度がととのっていた。和牛のステーキや馬刺しを堪能する。
青蘭はいつもなら酒は飲まないのだが、今日はちょっとだけと言って、おちょこにほんの二杯ほど、日本酒をたしなんだ。
「今日はいいの?」
「龍郎さんがいるときなら、アイツは出てこない気がするんだ」
言いながら、青蘭は下からすくいあげるように首をかしげて、龍郎を見つめる。ふだん飲まないせいか、すでに瞳が潤んでいる。でもそれは酔いのせいなのか、それとも、別の理由のせいなのか? たとえば、青蘭の目の前に龍郎がいるから?
「青蘭。あの……風呂に入ろうか?」
「お風呂、もういっぱい入った」
「まあ、そうだね」
洞窟っぽいのや、
「ええと……」
なるべく食事のあいだ、目線がそっちへ行かないよう気をつけていたが、どうしても隣室の赤いベッドが気になる。
「ねえ、龍郎さん。僕、いいよ?」
瑠璃色の瞳が龍郎を見つめ、近づいてくる。青蘭の目に映る龍郎の姿まで見える距離感。瞳に吸いこまれそうだ。
「せ、青蘭……」
これまで何度も機会はありながら、達成できなかった。悪魔に襲われたり、清美に邪魔されたり、はなはだしきは青蘭自身に拒まれた。
でも、今、やっと願いが叶えられる。
愛する人と結ばれる。
ただそれだけの、純粋でシンプルな願い。
「青蘭……」
胸の鼓動はドキドキ。
胸じゃないところも、ついでにズキズキ。
くちづけを求めるように目をとじる青蘭を抱きしめる。
青蘭の頭が、コトンと龍郎の肩に落ちる。
(…………ん?)
なにやら、すうすうと耳元で聞こえる。これは、まさか、アレか? いや、まさか。こんな場面で、そんなことあるわけがない。そう。まさか、まさか……。
(うっ……ウソだろ? こいつ、寝やがったーッ!)
龍郎は絶望と諦観のなかで、青蘭の安らかな寝息を聞いた。これはもう朝まで起きないパターンだ。
青蘭が下戸だったとは。
たったおちょこ二杯で、すっかり夢の国……。
「ああ……青蘭。ヒドイよ。期待させといて」
うーん、ムニャムニャとかなんとか、寝ぼけた応えが返ってきた。
しかたなく、龍郎は青蘭を隣室のベッドに寝かせた。安心しきった寝顔を見ると、苦笑いと微笑ましさが同時にこみあげてくる。
「けっきょく、青蘭。いつも、おまえにふりまわされるんだよな」
さらさらの青蘭の髪をくしゃくしゃにして、龍郎は立ちあがった。宿に貸し切りの風呂がある。ひと風呂浴びて気持ちを切りかえようと思った。
ラッキーなことに、清々しい竹林に面した風呂があいていた。宿泊客は無料で使える。サワサワと通りすぎる風の音を聞いていると、気分が落ちついた。
だが、部屋に帰ったときだ。
襖をひらくと、ささやき声が聞こえてきた。
「青蘭……」
「うん……」
まさか、寝落ちしただけじゃなく、もう浮気か?
あわてて、隣室へとびこみ、ベッドを覗きこむ。
青蘭が一人で眠っている。
ほっとして、龍郎は気がぬけてしまった。
(そうだよな。だって、つい昨日、あれだけ大騒ぎして、やっとのこと、つきあうことになって……)
そこで龍郎は、ふと思った。
ほんとに、そうだろうか?
龍郎は青蘭に愛の告白をした。
しかし、青蘭からの返事をハッキリと聞いたわけではない。龍郎のことを信用するとは言っていた。でも、それはイコール青蘭も龍郎を好きだということではないのではないか?
(……おれたちって、恋人じゃないのかな?)
以前、冴子と争ったときに、青蘭は龍郎を自分のものだと言ったけど、それは、ただ単に子どもっぽい独占欲なのかもしれない。
急に不安になった。
青蘭は少年のころから正常とは言えない環境で育ってきたから、愛のない相手と肉体的な関係を持つことには、あまり抵抗がないようだ。龍郎を誘ったのも、それだけの理由なのかもしれない。
(青蘭の気持ちが、わからない……)
考えこんでいると、畳の上を何かがよぎった。一瞬だったが、白っぽい小さなものだ。ネズミ……だったのだろうか? ネズミにしても、かなり小さかった気がする。
(自然の多い温泉地だからな。野生のネズミくらいいるだろうな)
ひらいた窓や縁側などから侵入したのだろうと思った。
それにしても、さっき、青蘭以外の声が聞こえたような気がしたのだが……。
調べてみても、むろんのこと、室内には龍郎と青蘭のほか、人間はいなかった。人の隠れていられるような場所も、そうはない。せいぜいベッドの下か、押入れくらい。
(変だな。空耳かな?)
龍郎はしかたなく、二つならんだベッドの一方にもぐりこんだ。体がホカホカして、なかなか寝つけない。深いため息を吐きながら、フットライトの点灯した部屋の天井を見つめる。
置物の時計がカチカチと時を刻む。
とつぜん、どこかでカサリと音がした。そこそこ大きな音だ。思わず、龍郎はベッドの上に身を起こした。音はそれきり聞こえない。
さっきのネズミ?
いや、でも、なんだか、おかしい。やはり、何かの気配を感じる。この部屋に、自分たちではない誰かがいるような……?
落ちつかない気分で夜をすごした。
真夜中になって眠りにつくまで、ずっと何者かの視線を感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます