第6話 ラビリンス その十六
「僕は……イヤだ……」
青蘭はあとずさり、龍郎の背中に顔を隠す。
龍郎は右手をあげて、かまえた。
青蘭はあの男に言い知れぬ恐怖を植えつけられている。青蘭には、アイツを倒すことはできないだろう。ここは自分がやるしかない。
だが、龍郎が一歩、前にふみだすと、背中でかすれた声が聞こえる。
「龍郎さん。僕にやらせて」
「青蘭、でも……」
龍郎の背に押しあてられた青蘭の手は、ふるえている。だが、それを抑えるように、青蘭はギュッとこぶしをにぎりしめた。龍郎は背中で、その動きを感じた。
「僕がやる。これは僕の獲物だ」
青蘭の手が背中から離れる。
前に進みだす青蘭の目を見ると、真紅に燃えていた。
「アンドロマリウス。命令だ。あの山羊を倒せ」
「次はどこをくれるんだ?」
「心臓を半分」
「悪くないね」
瞬間、青蘭の体から炎が噴きだした。燃えさかる火炎は、青蘭の怒りの色だと、龍郎にはわかった。
子どもだった自分を弄んだ悪魔に対する怒り。抵抗できない理不尽の数々に対しての、やり場のない憤怒。
山羊の悪魔はその炎に魅入られるようにながめている。悪魔にとって、それは抗うことのできない魅惑なのだろう。
いつものように、青蘭は悪魔をアンドロマリウスの魔力で粉々にくだくのだと思っていた。だが、青蘭は山羊の悪魔とむきあうと、その体をそっと抱きしめた。
炎の色が少し変わった。
怒りの底にある、青蘭の悲しみを映すかのように。
山羊の悪魔は業火に焼かれ、歓喜ともとれるような咆哮をあげながら消えた。燃えつきて崩れた灰は光の粒となり、青蘭の口に吸われていった。
「これで、終わり……僕は生まれ変わる」
つぶやきながら、青蘭はふりかえる。龍郎と目があうと、ほのかに瞳がうるんだ。青蘭はようやく、幼いころの悪夢から逃れたのだ。過去の自分と決別し、新しい自分へと前進する。その瞬間を、龍郎はまざまざと
「よくやったね。青蘭」
両手をひろげると、青蘭は龍郎の腕のなかにとびこんできた。押さえきれないように、その瞳から涙があふれてくる。
この人を守る。
でも、この人はそれほど弱くない。
強く輝く、まぶしい魂の持ちぬしだと、龍郎はあらためて実感した。
*
ぐらりとゆらぐような感覚のあと、まわりの景色が変わった。薄暗い診療所から、青蘭が子どものころに暮らしていた屋敷の内部に変化している。
龍郎は青蘭や冨樫とともに、そこに立っていた。
「僕の記憶のなかに戻ってきたんだね」
「まだ魔法の結界から出たわけじゃないんだな」
こげくさい匂いがしていた。
すでに火の手があがっている。
悲鳴があっちからも、こっちからも聞こえてくる。
青蘭は廊下に立ちつくし、渦巻く炎に飲まれていく屋敷をながめている。
つらいのだろうかと、龍郎は案じた。
「青蘭」
声をかけると、青蘭は微笑した。
「大丈夫。これは過去の記憶。もう、すぎたこと」
走りだすと、すぐに、そこがどのあたりなのかわかった。青蘭の子ども部屋の近くだ。ドアがあけっぱなしになっている。無数のぬいぐるみをならべた星の壁紙の一室。そのなかに、青蘭が……五歳の青蘭がすわっている。ベッドの上で、ユニコーンを抱きしめていた。
「ここから外に出られるよ」
そう言って、小さな青蘭は窓を指さした。ゆるいアーチを描いた、両扉のアンティークな窓。誘うような白い光がさしこんでいる。
廊下には、巨大な生き物の舌のように屋敷をなめるオレンジ色の炎が、すぐそこまで迫っていた。
龍郎は五歳の青蘭を見つめた。
「いっしょに行こう?」
だが、青蘭は首をふる。
幼いおもてに、純真無垢な笑みを浮かべる。
「大丈夫。僕はもう、その人のなかにいるよ。いつでも会えるから」と言って、二十歳の青蘭を示す。
「ぼくらは、ほんとは一つだから」
「そう。そうだね」
「また、いっしょに遊ぼう?」
「うん。約束だ」
少年の青蘭が微笑みながら手をふる。
窓をあけると、光のなかに吸いこまれるような力が作用した。
結界が壊れる。
魔術が解かれるのだ。
龍郎は最後にもう一度、屋敷のなかをふりかえった。
手前の子ども部屋で笑う五歳の青蘭。
その奥の炎と闇の交錯する迷宮を。
迷宮の奥底で、誰かが歌っていた。
澄んだ、美しい声。
悲しいような、切ないような、でも、どこか甘いようなメロディーを、泣きむせぶように歌っている。
心の一部をちぎられるような歌声だ。
一瞬、迷宮の最奥をさまよう人影が見えた。千里より彼方に離れているのに、その人の瞳が龍郎を見つめていることがわかった。
なぜか、とても懐かしい……。
*
朝だ。爽やかな光が世界を照らしている。
気がつくと、龍郎たちは焼け跡に倒れていた。たぶん、かつて子ども部屋のあったあたりの窓の外だ。
きっと、青蘭が過去をすて、未来にむかって生きることを決意したから、封印が解けたのだろう。
龍郎は瓦礫の埋まる地面によこたわる青蘭をかかえ起こした。
青蘭の長いまつげが数度まばたき、瑠璃色の瞳が龍郎を見あげる。微笑のなかに、たしかな愛情を感じた。二人の心が、バターのようにとろけていくのを。
「青蘭」
龍郎は魔法の言葉をささやいた。
これから、いったい何万回、この言葉を発するのだろうと思いながら。
好きだよ——と。
了
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