第6話 ラビリンス その十五
「死んでる!」
冴子の手首をにぎり、神父が叫んだ。
それは、そうだろう。
あれだけ大量の血を口から吐いていれば、生きているとは思えない。
龍郎は最上に向きなおる。
「あんた、最後におれたちのところまで来たな。あんたじゃないのか?」
「おれじゃない!」
「でも、あんた以外は、角のところで話してた。そのすきにやったんじゃ——」
「違う!」
すると、最上はポケットからナイフをとりだした。両手でにぎって、つきだしてくる。
「やっぱり、あんた!」
「違う! 青蘭だ。そうだろ? おまえはあの化け物とつるんでるんだ。おまえは化け物だからな。そうに決まってる!」
わめきちらして、青蘭に切りつけようとする。だが、最上の手つきはあきらかに素人だ。刃物を暴力に使うことに慣れていない。多少、武術の心得のある龍郎には、かんたんに止めることができた。手首をにぎり、脇の下に最上の腕を押さえこむ。
「なんのつもりだ。あんた」
「青蘭が悪いんだ。全部、青蘭が悪い。化け物のくせに、こんな綺麗な顔して。あんな汚いガキだったくせに、忘れられない。こいつは悪魔だ! 殺してやるんだ!」
龍郎は最上の手から、ナイフをむしりとった。無意識に嘆息がもれる。
「……あんただって、青蘭を好きなんじゃないか。なんで、優しくしてやらなかったんだ? あんたが裏切らなければ、青蘭がここまで人間不信になることはなかっただろうに」
「はッ? 好き? おれが? 青蘭を? そんなわけあるかっての! おれはマトモなんだよな。こんな怪物、好きになるわけないだろッ? あんただって、コイツのほんとの姿を見たら——」
「知ってるよ」
「はッ?」
「知ってる。それでも、おれは青蘭が好きだ」
最上はとつぜん、ぺたりと床にくずれた。龍郎の言葉に打ちのめされたようだ。
二人とない比類ない美貌と、痛ましい傷痕。どちらも青蘭だ。ほんとの青蘭。
めまぐるしく変化する外見に惑わされ、最上は自分の本心が見えなくなってしまったのかもしれない。
きっと、このくらいの男のほうが普通なのだ。金にも外見にも心乱されない龍郎みたいなのは、少数派。ある意味、異常なのだろう。
龍郎は最上の手を離し、ナイフをひろいあげた。ナイフは新品のようだ。刃が照明を受けて、キラリと輝く。龍郎は違和感をおぼえた。
(あれ? なんで汚れてないんだ?)
最上が冴子をやったのなら、刃は血にぬれているはず。それに肝心なことだが、殺人鬼はメスを持っていた。影だけを見ても、手術用のメスだとわかった。ナイフではない。
(違う。最上じゃない。少なくとも冴子さんを殺したのは)
じゃあ、誰なんだと思った瞬間、ヒラリと視界の端で何かが光った。メスだと認識したときには、目の前に赤い血が飛散していた。
ギャアアアーッと悲鳴をあげ、最上が床にうずくまる。片手で耳を押さえているのだが、その手の下からドクドクと血があふれてくる。床の上にちぎれた耳が落ちていた。
龍郎はあぜんとして、その人を見つめる。なんで、この人はこんなことをするんだろうと、ぼんやり思う。
フレデリック神父の手に、メスがにぎられている。
「……神父?」
「龍郎さん。ダメだ!」
青蘭が龍郎の手をひいて、うしろに退かせる。
「よく考えて。僕たち、ここが僕の記憶の世界だって一度もこの人には言わなかった。なのに、この人は知っていた。僕の記憶の世界が、山羊の男の結界とつながってるんだって、さっき言った」
ふははははと、神父は高笑いを始める。その姿が見る見るうちに大きくなっていった。もともと背は高いが、またたくまに二メートルを超え、三メートルには達する。顔つきも変貌し、頭からは角が生えてきた。
青蘭が龍郎の手をぎゅっとにぎりしめる。
「やっぱり、そうだ。おまえだったんだ。この診療所の開設から閉鎖まで、ずっと居続けた職員は、ただ一人。おまえだけだ」
青蘭はふるえている。
にぎりあった手から、そのふるえが伝わってくる。でも、それでも、勇気をふりしぼり、青蘭は片手を男につきつけた。
「この診療所の所長で、僕の主治医だった、柿谷。おまえが山羊の悪魔だったんだ!」
いったい、いつからフレデリック神父に化けていたのだろうか。
龍郎は初めて見るが、その造作は今や、神父の端正な白皙とは似ても似つかない。日本人らしいノッペリした顔のなかで、金色の山羊の目が光る。
龍郎たちの見ている前で、柿谷の顔面は黒い獣毛に覆われていった。ねじれた角を持つ山羊の頭だ。
山羊は腰をぬかしている最上の喉を、あっけなく引き裂いた。ホースのやぶれるような音がして、血がとびだす。最上は白目をむいて倒れた。
「青蘭。待っていたよ。おまえが帰ってくる日を。おいで。私の可愛い青蘭。また楽しくやろうじゃないか。ヨリを戻そう。そんな人間の男に、おまえを満足させられるものか」
悪魔は優しい声音でささやいた。
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