第6話 ラビリンス その十
そのとき、コツコツと足音が近づいてきた。
龍郎は緊張して身構えた。
見まわりの職員だろうか?
それとも、問題の山羊の悪魔か? 職員の目をごまかして、可愛い青蘭のもとへ恋人きどりでやってきたのか?
ドアがひらいたら、すぐにとびかかれるように、龍郎は扉の内側に身をひそめた。
やはり、山羊男だ。
ドアの向こうで鍵をあけようとする音が聞こえる。やや手間どりながらも、カチャリと錠の外れる音とともに、ゆっくりと扉がひらく。
ところが——
龍郎が襲いかかろうとすると、それは思いがけない人物だった。
「あッ。あなたは——」
「おいおい、せっかく助けに来たのに、殴るつもりじゃないだろうね?」
「すいません。あなただとは思わなかった」
整った面差しに渋い笑みを浮かべるのは、フレデリック神父だ。青蘭の心の迷宮のなかだから、龍郎と青蘭のほかは過去の産物しか存在しないのだと思っていた。
「なんで、あなたが、ここにいるんですか?」
「なんではないだろ? 私のほうが知りたい。急にあたりが光って、君と青蘭の姿が消えたと思ったら、迷路みたいなところに飛ばされていたんだから」
龍郎は周囲を見まわした。神父以外の人はいない。
「最上や冴子さんは?」
「知らない。バラバラになったようだ。ここは悪魔が作る結界によく似てるな。封印された空間のなかだね?」
龍郎はそれには答えなかった。
青蘭も黙っている。
青蘭の記憶のなかだと言えば、打ちあけたくないことまで、さぐられてしまうかもしれない。青蘭の名誉のために沈黙を守った。
「じゃあ、二人を探しながら出口を見つけましょう」
龍郎は青蘭と手をつないだまま、廊下へぬけだした。神父が龍郎たち二人のようすをジロジロ見ている。
「以前より親密になったな。何かあったのかな?」
「なんでもいいじゃないですか」
「よくはない。私は青蘭に惹かれている」
龍郎は呆然としてしまった。
なんて、あけすけなんだろうか。
まだ数回しか会っていない相手に、よく軽々とそんなことが言える。
(お……おれだって、青蘭を好きだと自覚するまでには、それなりの時間がかかったし、ここまで辿りつくまでに、どれほど苦労したと思ってるんだ?)
意味もなく神父を嫌ってたのは、ここに要因があったんじゃないだろうかと、龍郎は考えた。恋する者の勘で、神父がライバルだと気づいていたのだ。
ムカムカしながら、心配になって青蘭を流し見た。が、案ずることはなかった。青蘭の鋼鉄の箱に守られたガラスの心には、このていどの言葉はまったく響かない。青蘭は、しらけた顔で神父をながめていた。
ちょっと前まで、自分もこんな目で見られていたんだなと思うと、急に龍郎はおかしくなった。
「それにしても、静かだなぁ。今は真夜中なのかな?」と、優越感にひたって話をそらす。
青蘭が応える。
「たぶん。それにしても、変だな。血の匂いがしない?」
たしかに、それは龍郎も感じていた。
病院だから、消毒薬の匂いがするのはしかたない。が、この鉄分くさい匂いは、あきらかに血だ。ふつうの病院なら手術や採血など、血液をあつかう場面もあるのだろうが、ここは青蘭専用の診療所だ。誰かの手術をしているとは考えにくい。
廊下の角まで来た。
手術室と書かれた部屋が見える。
血の匂いは、あそこからだろうか?
慎重に足音を殺しながら、手術室の前まで歩いていった。ドアに耳をあててみるが、なかから物音はしない。無人らしく思える。
龍郎はドアノブをにぎり、そっとまわした。ドアのすきまから、むっと強い臭気が漂ってくる。血だ。ものすごく、なまぐさい。
のぞくと、室内はLEDの白い光で照らされている。手術台の上のものを見て、龍郎は「うッ」と口を押さえた。正視に耐えないものが、よこたわっている。
女——だが、性別がわかるのは、かろうじて、まともな部分の体格からだ。手術台にあおむけに寝かされた状態の上半分を……つまり、表側の部分をすべて切り刻まれている。頭のてっぺんからつまさきまで、体を二分するように、そぎとられてミンチ状になった肉が、近くの台に山盛りになっていた。
「看護師の誰かみたい。背中側の部分、ナース服を着てる」と、青蘭は冷めた目で言った。
龍郎は吐きそうになったが、なんとか、こらえた。それにしても、これは、どういう状況だろう?
誰かが人体実験して、ナースを解剖したのだろうか? それとも、何か別の理由で?
「青蘭。聞くけど、おまえがここにいたころ、看護師が殺されたとか、行方不明になったって事件はあったのかな?」
青蘭は首をふった。
「そんな覚え、僕はない。と言っても、僕が知らないだけかもしれないけど。監禁されてからは、病室の外のことはよくわからなかったから」
「ふうん」
ここが青蘭の記憶から形成された世界なら、青蘭が知らないことは起こらないはずだ。
(アスモデウスの記憶か、または魔法が別の世界につながってしまったか……)
青蘭がつぶやいた。
「もしかしたら、十五歳のころの僕の願望が具現化してるのかも。人間なんて、みんな死んでしまえばいいって願ってたから。とくに、ここのヤツらは、全員、死ねばいいって」
青蘭の記憶が暴走し始めたということか。となると、龍郎たちの身の安全も保証はない。
「ここを出よう。建物から出たら、現実世界に帰れるかもしれない」
龍郎は手術室をあとにした。
廊下を歩いていると、暗闇のさきを誰かがよこぎった。非常灯の光を受けて、長く黒い男の影が伸びる。影は、その手にメスをにぎっていた。
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