第6話 ラビリンス その八



 夜は嫌い。

 夜は血を流し、悲鳴と汚辱にまみれている。こわれた楽器のように、変な声を一晩中あたりになげちらかして。


 その夜も、山羊の悪魔の下で、青蘭は狂っていた。ときどき、自分ではない誰かが体を支配していた。

 深い闇の底に堕とされ、永劫に最下層の虫ケラとしておとしめられた誰かが。今だけ、自分はまだ、ここにいると主張する。失われた自身の尊いものの数々を嘆くかのように。まだ“在る”ことだけが、それに残された、ただ一つのものだから。生きていることを強烈に実感できる、この瞬間にだけ、わたしもいるのと、なりふりかまわず声高に叫びながら、やってくる。


 そして狂うほどに、どこからか低級な悪魔が集まる。

 サバトだ。

 そのさまは、悪魔の饗宴きょうえんに他ならない。


 すっかり無我夢中になっていたとき、とつぜん、短い悲鳴が聞こえた。


 青蘭が元気になってから、看護師の夜の見まわりはなくなっていた。だが、以前から、青蘭の態度に不満を持っていた日下部が、こっそり病室をのぞいたのだ。霊的な存在である低級な悪魔は、日下部の目には見えなかっただろう。しかし、上位の悪魔である山羊の男は、さすがに日下部にも見えたようだ。ヒィヒィとかすれた声をあげながら、廊下を這って逃げていく。


 青蘭はそのとき、完全にアスモデウスに意識をのっとられていた。日下部が見ていることには気づいたが、逃走を止めようとは、さらさら思わなかった。


 そのあと、すぐに数人の夜勤の医者や看護師がかけつけてきた。そのなかには最上もいた。あさましい青蘭の姿をひきつった顔で見ている。青蘭はそれを、どこか夢のなかでの出来事のようにながめた。


 人間に目撃された山羊の悪魔は逃げていった。身長が二メートル以上もある化け物なのだ。最上たちは腰をぬかして見送るばかりだ。


 青蘭が“悪魔に取り憑かれている”ことは、すぐに所内にいる全員に知れ渡った。

 翌朝には、青蘭の病室には鍵と監視カメラがとりつけられた。そして、夜になると鍵をかけられ、廊下には見張りがついた。


 その夜から、ピタリと山羊の男は来なくなった。やはり肉体を持つ悪魔だから、物理的に封鎖されると、それを超えてくることはできないのだろう。


 青蘭は清浄な夜をとりもどした。だが、それは、また別の恐怖の始まりでもある。快楽の玉に蓄積された悪魔のパワーが切れれば、青蘭は醜い芋虫に戻ってしまう。そのことを、所内のすべての人に知られてしまう。青蘭が美しいのは、悪魔に抱かれるからなのだと。青蘭はどこも治っていない。ただ、悪魔の力で人間の目を惑わしているだけの忌まわしいモンスターだと。


 これまでは、ずっと山羊の男に辱められることが嫌で嫌でしかたなかったのに、今は青蘭から切望している。

 快楽の玉のパワーが切れる前に来てほしい。つながりたい。あの醜悪な姿を二度と人前にさらしたくない。


 でも、一週間、二週間と無情に時がすぎていった。

 青蘭の体には、すでに予兆が現れだしていた。時間的に新しく修復した部位から、だんだんに傷痕が戻ってくる。


「お願い! 出して! ここから出して! 誰か助けて。お願い。僕をこれ以上、みじめにさせないでッ!」


 懇願こんがんしたが、誰も聞き入れてくれなかった。柿谷も、カウンセラーも、ナースたちも、最上でさえ。


「ねえ、耀大。耀大だけは僕の味方だよね? お願いだから、僕を閉じこめないで。僕を見すてないで。もう、あんな姿に戻りたくないんだ。わかってくれるよね? 耀大」


 最上は必死にとりすがる青蘭の手を、ふるえながら、ふりはらった。その目が告げていた。


 おまえは化け物だ。悪魔と契る魔性の子どもだ——と。


「耀大……?」

「あ……ああ。もちろんだよ。わかった。柿谷教授に頼んでおくよ」

「ほんと?」

「ああ……」

「耀大は僕を裏切らないよね?」

「……もちろん、だよ」


 そう言っていたのに、日に日に醜くなる青蘭をすてて、その夜、診療所の運営資金を持ち逃げし、行方をくらました。


 人間は裏切る。

 それはもう必然。

 厳然たる事実。


 この世に信用に足るものなど、ただの一つもありはしないのだと、青蘭は知った。


 もう誰も信じない。

 人は僕を苦しめる。


 外界に対する青蘭の心の扉は、完全に閉ざされた。


 深い迷宮の底に、どんなに贅沢をしても使いきれない湯水のような黄金とともに閉じこめられる孤独の王。

 それが、青蘭。

 暗闇のなかで、悪魔と姦淫しながら、退廃に沈む。


 たとえ誰かが青蘭の心の扉を叩いたとしても、それはあまりにも迷宮の奥深くにいる青蘭の耳には届かない。

 死のように静謐な世界だ。


 青蘭は満足していた。

 迷宮の王であることに。

 これ以上、裏切られ、傷つけられるよりは、もう何も感じないほうが、どんなに心地よいことか。


 痛みも悲しみも感じない。

 痛みも、悲しみも、ぬくもりも、愛も……。


 だが、なんだろう?

 この胸のざわめくような感覚は?

 誰かが、青蘭の心の扉を叩いている。

 固い鉄の扉を激しく叩きながら、あまつさえ、こじあけようとしてる。


(やめてよ。誰なの? もう僕は、ここから出ていくつもりはないんだ。永遠に続く夜のなかで、静かな孤独に耽る。それでいい。だって、誰も信用なんてできないじゃないか?)


 すると、誰かの言葉が青蘭の脳髄を切り裂く。



 ——おれは裏切らないよ。どんなおまえでも、変わらず愛し続ける。


 ——嘘。あなただって、けっきょくは、みんなと同じだ。


 ——嘘じゃない。おまえが好きだ。おまえだから、好きなんだ。


 ——嘘……。


 ——たとえ、おまえがどんな姿でも。



 ガンガンと叩かれる音が木霊こだまする。その音がどんどん大きくなっていく。


 青蘭は歯をくいしばって耳を押さえた。


「やめて! もう叩かないで! 僕の心を乱さないでッ!」


 ガン! ガン! ガン!


 音はしだいに巨大化し、あたり一帯に鳴り響いた。青蘭の心臓が破裂しそうなほど。体に痛みを感じるほど。強く。強く。


 ガン——ッ!


 青蘭の金切り声と、その音がかさなる。魔法の始まりのとき、二人の手と手がかさなったように、二人の“何か”が共鳴しあった。


 扉がひらき、光のむこうに人影が立っていた。四角く切りとられた白い空間に、その姿は黒く力強く浮きあがる。

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