第6話 ラビリンス その七



 魔王はアンドロマリウスと名乗った。

 青蘭の純潔を奪い、そのまま、青蘭の体内なかに居座った。


 しかし、アンドロマリウスの魔法は、青蘭を劇的に変えた。


 翌朝には、青蘭は以前の美貌をとりもどしていた。体の傷跡も三割がたは治った。昨夜の快楽のなかで、青蘭がアンドロマリウスに与えた部分だ。

 醜い芋虫だった青蘭は、美しい蝶へと羽化した。


「僕に何をしたの?」

「おまえのなかに、快楽の玉を埋めた。その玉がおまえに力をくれる。玉に力が満ちているときは、おまえは今の姿を保てる」

「もっと綺麗にはできないの?」

「いいぜ。今すぐ、すっかり綺麗にしてやっても。そのかわり、おまえはおまえの体を失うがな。綺麗な部分は、おれが貰った部位だ。よく考えて使えよ?」

「ふうん」


 青蘭はあまり真剣には考えていなかった。なにしろ、いつでも死んでいいつもりだ。この世に未練なんてない。自分の身がどうなろうと問題はなかった。


 医者たちは大騒ぎしていたが。

 治るはずのない傷痕が一夜にして、もとどおりに再生されたのだ。青蘭の場合、正常な皮膚がほとんどなかったから、皮膚移植ですら難しかったのに、きれいにケロイドが消えて、絹のようにすべらかな肌に戻っている。溶けくずれた形状の歪みもなくなった。医学的には説明不可能な事象だった。


 そして、傷痕のない青蘭は絶世の美貌だ。十二歳。かぼそい手足の優美な美少年だ。


 今度はほんとうに、みんなからチヤホヤされた。

 でも、もう青蘭は知っていた。人間は必ず裏切るということを。表ではいい顔をしていても、裏では悪口をささやいていることを。建前と本心は異質なほど、かけ離れているのだということを。金がかかわれば、みんな滑稽なほど本心をさらけだす。


 青蘭はこれ以上ないほど気分屋でワガママになった。気に入らない人物はかんたんにクビにした。人をからかって楽しんだり、金をちらつかせて破滅に追いこんだ。

 もちろん、山藤や荻野目は即刻、解雇した。日下部のことは、さんざん、いびって、青蘭を見下したことを後悔させるために、わざと残した。汚い仕事や重労働ばかりをさせた。


 それでも、青蘭の心は晴れなかった。青蘭には誰にも言えない秘密があった。


 アンドロマリウスの言葉の意味を真に理解するのに、さほど時間はかからなかった。アンドロマリウスは魔王だが、何かしらの事情で完全体ではないらしい。最初の夜、青蘭に与えた力は半月ともたなかった。


 快楽の玉の力が切れたとき、青蘭は傷痕だらけの崩れた体に逆戻りしていた。一度とりもどしたものをふたたび消失するのは、ただ失うより遥かにツライ。


「助けてくれるんじゃなかったの? 僕もう芋虫と陰口たたかれるのはイヤだよ」

「かんたんなことだ。快楽の玉に力を注げばいい」

「どうするの?」

「方法は三つ。一つ、人間と寝る。二つ、悪魔と寝る。三つ、悪魔を退治する。一番、長持ちするのは三番だな」

「わかった」


 悪魔と契約するというのは、こういうことなのだ。終わりのない苦悩と対価という名の喪失。得るものは消耗品なのに、与えるものは恒久的に己を削っていく。自分自身の体を切り刻んで差しだしているのと同じだ。

 肉体の一部を譲って、アンドロマリウスに抱かれるか、そうでないなら、アンドロマリウス以外の悪魔に。

 ほんとは嫌なのに。

 青蘭は子どもだから、それがとても穢らわしく思えた。自分がそれに染まっていくのが、おぞましくてならなかった。


 だが、じっさいには、ほとんど毎晩、何者かとそうしていた。

 悪魔の相手にはことかかなかった。

 いつも、どこからか、青蘭の匂いをかぎつけて、やってくる。

 ことに山羊の頭と足を持つ悪魔は、夜になると必ず青蘭の病室に現れた。逞しい山羊の男に、夜ごとさいなまれる。


 青蘭の心は壊れそう。

 悪魔に身をゆだねて歓喜する自分が怖い。でも、やめることはできない。それをしないと、自分はまた醜い芋虫に戻ってしまう。


 身も心もボロボロだ。

 急に幼い子どものようにふるまったり、何もない壁にむかって、一人で何時間もブツブツ言っていたりする。


 青蘭の変調は医者たちも気づいていた。カウンセリングをしたのも、そのころだ。青蘭は解離性同一性障害と診断された。


 医者たちは柿谷を始め、青蘭を不気味がっていた。治るはずのない傷痕が治ったり、また現れたり、ありえないことばかり起こる青蘭を、腫れもののようにあつかった。


 そのなかで、たった一人、最上だけが変わらず優しかった。青蘭が醜い芋虫だったころから、態度がまったく変わらないのは、最上だけだ。


「青蘭。元気を出して。あれだけツライめにあったんだ。病気になるのは、しかたないよ」

「そうかな」

「きっとよくなるよ」

「うん」


 信頼していた。

 最上だけは裏切らないだろうと思っていた。まったく愚かにも。経験が活かされていない。人は裏切るものなのに。


 最上と恋人になったのは、青蘭が十四歳のときだ。成り行きはもう忘れた。初めての人間の男。愛されていると思いこんでいた。

 最上は口癖のように「青蘭が好きだ」「愛してる」と言った。

 ほかの誰に蔑まれてもいい。罵られてもいい。裏切られてもいい。最上さえいれば、ほかには何もいらない。

 青蘭は最上の“愛”に依存した。彼は青蘭の機嫌をとるのが抜群にうまかった。青蘭は最上が望むままに、彼の給料をつりあげた。所内の立場も昇級した。


「青蘭。困ったよ。田舎の親が病気になったんだ。手術しないといけない。しばらく帰って看病するよ」


 そう言われれば、


「待って。人を雇えばいいんでしょ? いくらあればいいの? 二千万なら足りる? 三千万?」

「お金の問題じゃないんだ。生きてるうちに顔を見たくて」

「嫌だよ。僕を置いていくの? ほんとは僕のこと好きじゃないんだね?」

「違う。君のことは大好きだよ」

「じゃあ、五千万あげるから、そばにいてくれる?」

「わかったよ。しかたないな」


 けっきょくは最上も金が目当てだと気づいてなかった。いや、気づきたくなかったのかもしれない。


 そんなころ、あのことが起こった。

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