第6話 ラビリンス その六



 世界が終わった日。

 それは、青蘭にとって、いつだったのだろう?


 火事ですべてを失くした日?

 愛してくれる人が死んだ日?

 それとも、人間の汚さを初めて知った、この日だったのだろうか?


 彼女たちにも愛されていると思っていた。ただの一度も罵られたことなどなかったから。愛されることは、幼い青蘭の常態にすぎなかったから。


 傷ついた青蘭の鼓膜をえぐるように、さらにヒドイ言葉がいつまでも続いた。


「だいたい、わたしなら、あんな姿になってまで生きてたくないなぁ。たとえ百億円の後継者だとしても。お金は大好きだけど、お金で買えないものってあると思うんですよね」

「百億あれば、好きなだけ整形できるよ」

「だけど、平井先生だって、形成は難しいって言ってるじゃないですか。日本で屈指の形成外科医の先生が、完全に元には戻らないって断言してるんですよ?」

「まあ、厳しいよね。あれじゃ。見ためだけじゃないしね。声帯が焼けちゃってるから声も出ないし。指は一生、動かないでしょうね。天は二物を与えずってやつかしらね」

「ああ、ヤダヤダ。あんな体に一生とじこめられるなんて、牢獄みたいなもんですよねぇ」

「カベちゃん。見まわりの時間じゃない? あんたの大好きな大金持ちのおぼっちゃまの寝顔を見てきなさいよ」

「寝顔なんか芋虫ですよぉ。しょうがないなぁ。行ってくるかぁ」

「まあまあ。その芋虫が金の卵、生んでくれるんだからさ」


 ケラケラ笑いながら、カウンターの外へ足音が近づいてくる。


 青蘭は必死で暗闇のなかへひそんだ。それは他人に蔑まれたくないという、青蘭の最後のプライドだった。

 みんなに愛されていると思っていたのに、ほんとは陰でバカにされていた。それを思い知って泣きぬれる、この惨めな姿を彼女たちに見られたら、きっとさらに見下されるのだろう。

 それだけはイヤだった。


 青蘭はまさに芋虫のように這いずりまわって、その場を逃げだした。


 そう言えば、今になって気づいた。

 青蘭の病室には鏡がない。窓やテレビのモニターや、姿を映すようなものが何も置かれていない。


(ぼくは……どんな姿なの? みんなが、あんなに笑うほど、ひどい姿なの? 化け物みたいに?)


 青蘭は院内をさまよって、鏡を探した。ようやく、職員用のシャワールームを見つけた。そこに大きな姿見があった。

 青蘭は照明のスイッチを探して明かりをつけた。恐る恐る、姿見をふりかえる。


 そして——絶望した。


 それは人間の形骸けいがいでしかなかった。醜い。

 全身が赤くただれたケロイドになり、歪んでひきつれていた。まつげも眉毛も燃えてなくなり、片目は変形して、ほとんど塞がっていた。

 手袋を外すと、指はみんな燃えてなくなっていた。かろうじて親指と人差し指の第二関節まで残っている。体の損傷もヒドイ。


 黒く燃えつきたマッチ棒みたいだと、青蘭は自分の姿を嘲笑った。


(死んだほうがマシだ……)


 青蘭の人生は、あのとき、ほんとは終わっていたのだ。

 ここにいるのは、ただの死体のなりそこない。生きていてはいけなかった。


 青蘭は泣きながら、屋上をめざした。何度も床に倒れた。不自由な体をひきずって、屋上へ続く階段をあがっていった。


 屋上からは星が見えた。

 星はとても美しい。

 この醜い生を終えれば、また、あの場所へ帰れる。きっと、過去の罪が許されるなら。


(こんな姿はイヤ。こんな姿じゃ、あの人も愛してくれない。死にましょう。また生まれ変わればいい。そうでしょ?)


 いったい、あと何回、この地で、惨めな存在にんげんとして生きていかないといけないのか? このまま永遠に?


 もうイヤだ。ここは苛酷すぎる。

 あの場所に帰りたい。

 あの美しい楽園に。


 青蘭は屋上から飛びおりるために、建物の端まで這っていった。しかし、そこで己の不甲斐なさを思い知らされる。この体では、柵をのぼることができない。死ぬことさえ許されない。


 青蘭は声をあげて泣いた。かすれて空気のもれるような音が、喉からもれだす。


 たぶん、このとき、青蘭のなかで何かが狂った。青蘭のなかにいる“誰か”が、正気を失うのを感じた。


 つねに見目麗しさを賛美されていた彼には、化け物のような姿のまま生き続けることは耐えられない苦痛だったのだ。


 青蘭と“その人”が分離した瞬間だった。


 青蘭は絶望したまま、空を見つめていた。このまま、よこたわっていれば、死ねるだろうかと考えた。


 すると、耳元で声がした。

 どこかで聞いたことがあるような声。

 独特のしわがれ声が。


「そんな姿で生きることはツライだろう? 青蘭。おれと契約しよう」


 その口調は、とても優しかった。

 その声を聞いた瞬間に、青蘭は安堵した。もう苦しまなくてもいいのだと。


「いいよ。契約しよう」


 声にはならなかったが、断言した。

 すると、目の前に黒い影が舞いおりた。文字どおり、真っ黒な影だ。双眸だけがギラギラ輝いて、青い光を放っている。


 悪いものだということはわかった。

 一瞬、後悔したが、もう遅い。

 それが、青蘭の上に覆いかぶさってきた。


 その夜、青蘭は無垢を失った。


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