第6話 ラビリンス その五



 先生たちは優しい。

 毎日が退屈だけど、それ以外は何も困ることはない。


 先生たちに教えられて、青蘭はだんだん、自分の現状がわかってきた。

 火事で両親を亡くしたこと。屋敷は全焼して、今は同じ島のなかに建てられた診療所で暮らしていること。祖父は外国に行ったきりで、自分は大金持ちの祖父の唯一の後継者であること。


 赤ん坊が世界について学んでいくように、青蘭も多くのことをそこで学んだ。同時に、言葉や箸の持ちかたなど、日常的なことは少しずつ思いだしていった。


 だが、思うように声が出ないことは不便でしかたない。部屋にテレビを置いてほしいとか、お人形が欲しいとか、食事をするとき喉が痛いとか、いろいろ言いたいことがあるのに、何一つ伝えることができない。


 病室には絶えず誰かがいて、青蘭を励ましたり、手袋のようなものを両手にはめられていて、ペンを持つことも難しい青蘭に、手をそえて、文字を書くことを教えてくれたりする。


 ナース長は山藤だが、ほかにもナースはたくさんいた。一番若い日下部くさかべが絵本を読みきかせてくれた。青蘭が大喜びすると、それからはみんなが競うように、絵本や人形やオモチャを持ってきた。


 しかし、それらは青蘭の体調に悪いからと言って、柿谷先生にとりあげられてしまった。青蘭は長らく眠ったままだったから、ちょっとでもムリをすると、すぐに弱ってしまうと。普通にすごせるていどの体力がつくまでは我慢しなければならないと言われた。


 退屈していると、病室のドアがひらいて、最上が入ってきた。手にぬいぐるみを持っている。


「おはよう。青蘭。今日も検査だよ。ちゃんと検査させてくれたら、これをあげるよ」

「せ……んせ……」

「そんな顔をしない。可愛い顔が台なしだぞ。検査ばっかりでツライのはわかるよ? でも、これは君のためなんだ。検査の結果で、君のリハビリの方針が決まるからね。君だって、早く自分の足で歩けるようになりたいだろ?」


 青蘭はずっと寝たきりだったせいで、筋力がおとろえ、自力歩行ができないのだと、医者からは説明されていた。


「さあ、青蘭。みんな、君の力になりたいんだ。いい子だね。みんな、君が大好きだよ。君は僕らの天使だ」


 そんなふうに言われることには慣れていた。目が覚めてから、誰もが青蘭を大切にしてくれたから。


 とても心地よい、ぬるま湯で満たされたような空間。羊水につかる胎児だ。まだ何者でもなく、絶対的に安全で快適な閉鎖空間に、どっぷりとひたっている。


 青蘭のお世話をすることは彼らの喜びであり、彼らはその仕事を奪いあった。体を動かせない青蘭の排泄の始末も、入浴の許可がおりない青蘭の全身をやわらかい布でふくのも、彼らにとっては、この世に二つとない宝玉を磨くのと同じくらい尊い仕事だ。


 少なくとも、そんなふうに彼らは青蘭に思わせた。競って青蘭の機嫌をとり、青蘭に気に入られようとした。


 うっすらと記憶している屋敷の生活でも、青蘭は誰からも愛されていた。大切な宝物としてあつかわれ、頰に接吻され、頬ずりされ、抱きしめられた。それが、青蘭の唯一の記憶。理不尽な思いなど、ただの一度もしたことがない。あの恐ろしい火事のこと以外は。その記憶も青蘭のなかからは抹消されていた。


 退屈なことをのぞけば、何も望むことが他にない。その退屈こそが、青蘭の憂鬱ゆううつなのだが。


 青蘭は冒険に出ることにした。

 おとなしく最上に従って、一日中いろんな機械に入れられ、あちこち検査されたあと。


 夜、病室に一人になった青蘭は、意識をとりもどしてから初めて、自力でベッドをぬけだした。


 それが地獄の始まりだとは考えもせずに。


 眠り姫は永遠に眠っているべきだったのだ。そうすれば、自身にかけられた残酷な呪いを知ることもなかったのだから。


 生ぬるい羊水のなかに、永遠にヒタヒタとつかって、夢を見続けていればよかった……。


 病室をぬけだした青蘭は、ナースステーションの明かりを見ながら、自分だけの力でそこへ行ったときのみんなの顔を想像する。


 きっと、みんな、「すごいね。青蘭」「もうこんなに回復したの?」と褒めてくれる。「ムリしちゃいけないわ」と、少しは叱られるかもしれないが、でも、みんなに賞賛されると思うと、そのほうが嬉しかった。


 青蘭の心はまだ五歳。

 人に愛され、人を愛する子どもだった。

 きっと、みんなは頭をなでたり、ほっぺにキスするために、青蘭のとりあいをするだろう。そう信じていた。


 よろめきながら、ナースステーションのカウンターの近くまで、ようやくやってきた。ほんの十数メートル歩くだけで激しく息が切れる。体が弱っているのは本当だ。早くリハビリして、よくなればいいのに。


 青蘭はカウンターの下にもぐりこんで、姿を隠しながら近づいていった。

 急に顔を出して、みんなをおどろかせよう。そう思った。


 笑いだしそうになるのをこらえながら、青蘭は「ねえ、みんな!」と言って顔を出そうとした。


 だが、そのとき、話している会話の内容が耳に入ってきた。

 声から言って、カウンターの向こうにいるのは、山藤と日下部のようだ。奥のほうに荻野目らしい年配のナースがいるのも見えた。


「ああ、やっと今日の子守、終わった。毎日、毎日、やんなっちゃうよ」


 そういう声は日下部だ。

 ドキンとして、青蘭は硬直する。


(子守……って、ぼくのこと?)


 すると、荻野目が応えた。

「まあ、しょうがないじゃない。それが仕事なんだし」

「そうだけど、たまに、やんなりますよぉ。あんな汚い臭い子ども。ほんとはさわりたくもないのに」

「どこの病院だって、今どき、老人の下の世話くらいさせられるよ」

「ヘルパーの仕事でしょ? ナースがなんで、ここまでしなくちゃいけないの?」

「あんまり大勢の人間をつれてきたくないんでしょ。噂になると困るから。醜聞だもんね」

「ええっ、だからって、ご機嫌とるのウンザリ」

「けど、よその十倍よ。給料。カベちゃんだって、だから来たんでしょ? ここに」

「そうだけど」

「お金。お金。これで、あたし、老後は贅沢できるわぁ。夢だったのよねぇ。世界一周旅行。豪華客船の旅」

「荻野目さん、現金ー!」


 すると、急にクスクス笑い声をあげて、山藤が二人の会話に割りこんだ。


「そう言うけど、カベちゃん。あんたなんか、あわよくば、玉の輿、狙ってるでしょ?」

「あったりまえじゃないですかぁー。だって、あの子のじいさんが死ねば、何百億円って遺産が入ってくるんでしょ? もうこんなチャンス一生ないわ」

「あんたの正直なとこ、悪くないと思うけど。おぼっちゃまを手なづけたいんなら、せいぜいネコかぶってなさい」

「もちろんですよ。たとえ化け物みたいな子どもでも、百億円の御曹司だと思えば我慢できるわ」


 青蘭は声もなく、うずくまった。

 涙が次々こぼれおちて、止まりそうになかった。

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