第4話 ダゴンの娘 その二



「——わッ! なッ? ちょっと!」


 あわてて、つきはなすと、運悪く(あるいはラッキーハプニング的に)右手が豊満な肉の感触に、もろにあたった。ふかふかのムチムチだ。


 冴子はちょっと痛そうに、しかめっつらをした。しかし、気を悪くしたわけではなかった。気をとりなおして微笑をなげかけてくる。


「好きな人いるの? だから、イヤがるの?」

「うん。まあ、そういう……」

「あたしじゃない人を好きな男、ふりむかせるの好き。絶対、あなたのハートを射止める」

「いや、それは、ムリだと……」


 自分が青蘭以外の誰かに心変わりするとは、とうてい思えない。その自信はあるのだが、冴子には龍郎のかぼそい反論は無意味のようだった。

 まったく悪びれたようすはなく、坂道をのぼっていく。


「ほら、こっち。こっち」

「遠いなら、車で行くけど」

「それほど遠くないわ。ほら、見えてる」


 漁港を見おろす位置に、その家はあった。周囲は林になっていて、なんとなく暗い。建物は比較的大きく、一般家庭のなかでは成功した人の住居に見える。立派な二階建てだ。


「まわりの家の三倍は敷地あるね。冨樫さんは漁師さん?」

「ずっと前はそうだったって話だけど、とっくに引退してる。今は趣味で魚釣りするくらいじゃない?」

「じゃあ、どうやって稼いでるんだろう? ああ、そうか。年金か」

「娘さんが例の屋敷から帰ってきたときに、ものすごい額の退職金を貰ったって話よ?」

「それって、いつごろの話かな?」

「さあ? 二十年くらい前じゃないの? 知らないけど」


 まあ、冴子の年で伝聞でしか知らないということは、そのくらいさかのぼるということだ。ということは、青蘭が生まれるかどうかというころの話だ。


(二十年前、いったい、青蘭の屋敷で何があったんだろう? それは十五年前の火事に関係してるんだろうか?)


 昭和風の家屋に近づいていった。

 気のせいか、建物に近づいていくと、妙に生臭い。釣った魚でも放置しているのだろうか?


 玄関は引き戸だ。

 呼び鈴が見つからないので、すりガラスの戸をかるく叩く。


「おはようございます。冨樫さん。ご在宅ではありませんか? 冨樫さん。いらっしゃいませんか?」


 返事はない。

 家のなかも静まりかえっていて、無人のようだ。しかし、無人のはずはない。少なくとも、人魚に呪われたという娘はいるはずだ。外出するとは思えない。


「すいません。どうしてもお話を聞かせてもらいたいんです。おられませんか?」


 しばらく、しつこく戸を叩いたが、いっこうに反応はない。

 しかたなく、龍郎は建物の横にまわってみた。冨樫が裏口付近にでもいるのなら、玄関でちょっと戸を叩くていどの音は聞こえないだろう。キッチンにでも誰かいるかもしれない。


 庭を歩いていくと、あの匂いがひどくなった。とつぜん目の前に、大きな穴があった。庭を掘り、そこに生ゴミが捨てられている。魚臭いはずだ。魚のアラが大量に投棄され、蛆がわいていた。


 吐き気をもよおす状況から目をそらし、鼻と口を押さえて、裏口あたりに歩いていく。


 裏手に戸口はなかった。珍しい家だ。一軒家なら、玄関のほか勝手口くらいはあるものだが。


 窓も一つも見あたらない。それどころか、素人くさい細工で、板を打ちつけ、窓や戸口をふさいだような痕跡がある。台風の通りやすい土地柄だから……と言えなくもないが、裏手は雑木林に囲まれていて、それが自然の防風林になっている。ふさぐ必要があるとも思えない。


 見れば見るほど、怪しい。

 冨樫は何かを家のなかに隠している。そして、それを外から覗かれないようにしているのではないだろうか?


「家のなかに侵入してみよう。冴子さん、あなたに迷惑かかるといけない。もう行ってください」

「イヤよ。そんな楽しそうなことから、あたしをのけものにしようとしても、ムダだから」

「…………」


 なんだか、仲間に引き入れてはいけない人をつれてきてしまった気がする。

 しかし、今さら、どうしようもない。


 龍郎は覚悟を決めて、屋内に忍びこめそうな場所を探した。家のまわりをグルッと一周してみると、裏手には窓という窓に板が釘打ちしてあった。玄関のある表側は、頑丈な雨戸が閉めきられている。


 が、横手には窓がある。そのうちの一つだけ、少しだけひらいている。わりと高い位置にあるから、換気用の窓だろう。龍郎はその下に立ち、なかを覗いた。どうやらトイレだ。人影はない。


 音を立てないよう注意しながら、カラカラと窓をひらく。縦五十センチ、横幅三十センチほどの窓。なんとか、龍郎でも通りぬけることができた。便器を足がかりにして侵入する。


「ヒドイ! あたしが入れない。手、届かない」


 外で冴子が騒ぐので、龍郎は嘆息する。残しておくと、ずっとわめいているかもしれない。


「しょうがないなぁ。手、伸ばして」


 なかから手をさしだしたときだ。

 ドアの外で、かすかな音がした。

 ドア——つまり、家のなかからの音だ。誰かがトイレのドアの外に立っている。


(しまった。冴子さんが大声だすから……)


 家人に聞きつけられてしまったのだ。

 もう一度、外へ出るべきか、迷ううちに、ドアノブがまわる。ゆっくりと……。

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