第4話 ダゴンの娘 その三
龍郎がドキドキしながらドアを見つめていると、それは、かすかに軋みながら向こう側にひらいていった。
家の人に見つかったら、確実に泥棒あつかいされる。警察を呼ばれたら、話を聞くどころではない。
(いや、でも、清美さんが言ったことが正夢なら、おれは冨樫さんの運転する船に乗るんだ。問題は起こらない。起こったとしても和解できる)
よし、ドアがあいたら、まっさきに
すると、ドアのかげから人の顔が現れた。
「おはようございます!
勢いこんでまくしたてたものの、龍郎はその人の顔を見て黙りこんだ。ムダな努力をしてしまった。いや、というより、あからさまな恥をさらした、というべきか?
薄暗い家屋のなかでも輝く銀髪。印象的なブルーグリーンの瞳。アングロサクソン系の端正な造作。
なぜだろう?
廊下に立っていたのは、フレデリック神父だった。
「……なんで、こんなところに、あなたがいるんですか?」
「いや、それはこっちのセリフだよ」
龍郎はトイレから出て、玄関のほうを見た。玄関があいている。
「また、ピッキングですか?」
「変なこと言わないでほしいな。あいてたんだよ」
嘘だと思ったが、言い返すのもめんどくさかった。龍郎はため息をつき、トイレの窓から首を出す。
「冴子さん。玄関があいてるから、そっちから入ってきて」
「わかった」
冴子がウキウキしたようすで前にむかっていく。冴子が来るまでのあいだ、龍郎は小声で神父と話しあった。
「また、調査ですか?」
「そんなものだね」
「この家から悪魔の匂いがしますね」
「ああ。する。だが、大物じゃない」
「あなたの仕事って、賢者の石について調べることじゃないんですか?」
「いや、私はエクソシストだ。世界中が私の仕事場だ」
「わかりました。とにかく、ここは協力ってことで、いいですか?」
「もちろん」
神父は悪魔退治だと言うが、じっさいには青蘭を追ってきたのではないだろうかと、龍郎は思う。
そうでなければ、低級中級の悪魔ごときに、わざわざ、海外から何度もエクソシストがやってくるとは思えない。ただの悪魔退治より遥かに重要な案件があるからこそ、こうして、くりかえし来日しているのだ。
「家のなかは調べましたか?」
龍郎がたずねると、神父は首をふった。ちょうど、そこへ冴子が玄関から入ってくる。
「こっちから、悪魔の匂いしますよね?」
龍郎は玄関からもっとも遠いほうを指さす。
「ふうん。君、ずいぶん成長したな。慣れたもんだ」
「それは、まあ」
「では、お手並み拝見といこうかな」
クスクス笑う神父が、なんだか憎らしい。出会ったときからそうなのだが、龍郎はどうも、このフレデリック神父が苦手だ。苦手というか、好きになれない。今日はとくにそんな心地がする。龍郎をあからさまに半人前を見る目でながめるからだろうか。それとも、本能的な何かが、そう告げるのか。
なんとなくイライラしながら、龍郎は廊下を歩いていった。悪魔の気配が強まる。同時に、それに比例して匂いもきつくなった。とんでもない臭気だ。生臭いのは、さっきの魚のアラが原因ではなかったのか。
廊下のつきあたりにドアがある。
どうやら、この内に悪魔はいるようだ。ドアをあけると、そこは脱衣所になっていた。鏡が壁にとりつけられている。奥にもう一つ、ガラスドアがある。しかし、汚い。ヘドロのような青黒いものが全体にこびりついている。足をふみいれるのをためらわれるほどだ。
風呂場のなかから音がした。水音だ。どうやら、誰かが湯船につかっているらしい。
だから、呼んでも返事がなかったのかもしれない。
(でも、この匂いは……?)
思いきって、脱衣所のなかにふみだす。よく考えたら土足のままだが、かえって、それでよかった。素足や靴下では、とても入っていけない。
ピチャン——と、また水のはねる音。
龍郎は手を伸ばし、ガラスドアのノブをつかんだ。
そのときだ。
「あんたたち! そこで何してるんだッ!」
男の声がして、ダダダッと走りよる足音が近づいてくる。
神父が叫んだ。
「龍郎くん! やれ!」
神父は今しも駆けよる男にとびつき、押さえる。
「やめろ! そこはあけちゃならん。やめてくれッ!」
男も必死で主張する。
五十代後半か六十くらいの男だ。おそらく、それが冨樫だろう。
龍郎は迷った。
自分は船に乗せてもらいたいだけで、冨樫を困らせたいわけじゃない。
「龍郎くん! 何をしてるんだ。悪魔を退治するんだ!」
神父にうながされ、龍郎はドアノブをまわした。ガラス戸を押しあけると、強烈な刺激臭に襲われ、失神しそうになる。大げさではなく、めまいがした。
そして、それが、そこにいた。
人魚……。
いや、龍郎の知っている人魚とも少し違う。龍郎が以前に見たのは触手の足を複数持つものたちだった。
が、そこにいたのは、まさしく人魚だ。両足が癒着し、大きなヒレのようになっている。全体の姿形は伝説の人魚に似ている。あんなに美しくはないが。
どす黒い鱗に全身を覆われ、髪はぬけおち、鱗のあいだから緑色の粘液のようなものを分泌している。手指は退化してヒレになっていた。
しかし、それでいて、顔だけはかろうじて人間の女に見えた。それも、けっこう美人のようだ。上半分だけに鱗がビッシリとかさぶたのように生えている。下半分の白い肌と赤い唇が生々しくて、かえって残酷だ。
冨樫の娘だろう。
話を聞いたときに魚鱗病ではないかと疑ったが、これは違う。
冨樫の娘は人ではないものに変異してしまったのだ。
龍郎は冨樫をふりかえった。
冨樫は廊下に両手をついて、くずおれる。
「冨樫さん。あなたの娘さんは悪魔になってしまった。救われるには、今の命を捨てるしかない」
「ダメだ! 娘は病気だ。ただの病気なんだ! 勝手なことはさせんぞ」
「悪魔に取り憑かれた人間は魂を浄化しないと、人に戻れないんだ」
「違う! 娘はちゃんと、話もできる。こっちの言ってることもわかってるんだ。見ためが変わったって、おれの娘なんだよ!」
語気にふくまれる
こんな姿に変容した娘でも、親には愛しいのか。そばにいてもらいたい。それが、親心なのか……と。
すると、浴槽につかったソレが、やけにギザギザした声音でささやいた。
「おと……さん。わた……にんげ……もどり、たい…………」
冨樫の両眼から涙が盛りあがる。
龍郎は浴室に入ると、そっと右手を伸ばし、人魚のひたいにあてた。浄化の白い光が、あたりを包んだ。
了
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