第3話 迷宮の扉 その二



 最初、青蘭は抵抗するふうだった。

 だが、しだいに、その拒絶はほどけ、とかれていく。


 カッとなって、龍郎は車をとびだした。ひとの恋人に手を出すなんて、やっぱり、とんでもないゲス野郎だ。


「青蘭!」


 かけよると、龍郎は青蘭の手をひいて二人をひきはなす。


 青蘭は瞬間、助けを求めるように龍郎を見あげた。底なしの泥沼に堕ちていこうとする人の目だ。


 どうしてだろう?

 もちろん、これは修羅場だ。

 今の男と昔の男が出会って、青蘭をとりあっている。でも、それはただの恋愛の駆け引きであり、それによって、龍郎と最上のどちらかが死ぬわけでもないし、ましてや青蘭の身に不幸が起こるわけでもない。


 なのに、青蘭はたった今、この瞬間に、自分の体が溶けていくことを知った雪の精のようだ。自らの存在がこの世から消えていく最後の名残を必死にかき集め、とどめようと、もがいている。


 なんだって、こんなに悲愴な目で見つめるのだろう?


「青蘭……?」


 すると、最上が嘲笑うように告げた。

「離せよ。青蘭は、おれとやりなおすんだそうだよ。君はお役ごめんだ」


 龍郎は憤然とする。

「そんなわけないだろう? これから、青蘭は大事な用事があるんだ。これは、おれたち二人でしかできないことなんだ。あんたなんかの出る幕じゃない」


 そう。これは体内に対となる賢者の石を持つ、青蘭と龍郎の宿命だ。他人には、なんの関係もない。青蘭にとって未来を大きく左右する重大な分岐点となるはずだ。その定めをほうりだして、昔の男とヨリをもどすために遊びに行くなんてこと、あるわけがないのだ。


 だが、最上は笑った。

「青蘭。言ってやれよ」


 すると、青蘭は消え入りそうな声でささやく。


「……龍郎さん。三ヶ月の試用期間が終わったので、あなたを解雇します。ごめんなさい。違約金はあとで振りこんでおくよ」


 それだけ告げると、青蘭は、くるりと背をむけた。最上がその細い肩を抱いて歩きだす。


「青蘭! 嘘だろ? おれとおまえのつながりが断たれるわけないって、わかってるはずだ。おれと、おまえのなかにある玉が——」


 叫んでも、青蘭はふりかえらなかった。




 *


 しばらく、自動車のなかで龍郎は呆然としていた。まさか、ここまで来て、とつぜん解雇されるとは思ってもみなかった。


(そう言えば、最初に雇用契約したとき、三ヶ月の試用期間って言ったのは、おれのほうか)


 でも、そんなこと、すっかり忘れていた。雇用がどうとかではなく、もっと深い絆が二人のあいだに紡がれていると信じていた。


(いったい、どうしたんだ? 青蘭)


 青蘭のようすは普通じゃなかった。

 あれが青蘭の本心であるわけがない。

 それに、さっきのあの目は、ぬけだせない底なし沼から救いだしてくれる人を見る眼差しだった。


 青蘭は救助を求めている。


(最上に何か言われたのか? 脅迫されていたとか?)


 もしそうなら、青蘭の身に危険が及ぶだろうか? いや、青蘭がその気になれば、アンドロマリウスの力で、たいていの男はただの肉塊になりはてる。身体的な意味での危険はないと見ていい。ならば、求めているのは精神的な救いだ。


(くそッ! 行かせるんじゃなかった。ムリヤリにでも引きとめておけば……)


 あわてて、あたりを探してみたときには、当然のこと、青蘭と最上の姿はなかった。いったい、どこへ行ったのだろうか?


 青蘭は過去の自分と向きあう決心をしていた。今になって、その覚悟を変えるとも思えない。


 青蘭の言っていた場所へ行けば会える。そんな気がした。

 きっと、龍郎のなかにある苦痛の玉が、正しい道へと導いてくれる。


 とりあえず、龍郎は漁港をめざした。

 以前の経験から言っても、無人島へ行くためには漁船を持つ人の手助けが必要だ。


 ただ、目的地の正確な場所がわからない。まずは、その場所をつきとめなければならない。


 青蘭があの場所へむかっているのなら、島まで送ったという漁師がいるかもしれない。あるいは、もっと以前に、島へ食料を運んでいたという者など。


 そう考えて、漁港を次々、探しまわった。しかし、手がかりのないままに日が暮れた。近くの格安の民宿に泊まったが、なかなか寝つけなかった。


 こうしているあいだにも、青蘭は龍郎が駆けつけるのを待ちわびているかもしれない。


(なんだか、思いだすなぁ。忌魔島へ行ったときのこと。あのときも、青蘭がさらわれて……)


 まったく、どうして、こんなにも青蘭は、あやういのだろう?

 龍郎がどんなに手をかけて大切に守っても、わずかな指のあいだをすりぬけて、どこか遠いところで泣いている。

 残酷な運命が、青蘭をとらえて離さないというのか?


 ため息をつきながら、夜が明けるのを待った。


 朝方だ。

 うとうとしていると、電話が鳴った。龍郎は枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばす。清美からだ。


「えーと、清美さん? 何かあったの?」


 すると、清美の寝ぼけたような声が答える。

「もしかして、龍郎さん、迷子になっちゃいましたか?」

「えッ?」


 布団のなかに寝そべりながら、スマホを耳にあてていた龍郎は、思わず、はね起きた。


「なんでッ?」

「夢で見たからです。予知夢、よく見るんですよね。青蘭さんと、はぐれたのかなぁって」

「それ、予知夢っていうより正夢だよ。青蘭がどこに行ったかわかるかな?」

「それはわかりませんが、龍郎さんが明日、行かないといけない場所はわかります。明日……うーんと、今日ですか。明るくなったら」

「どこへ行けばいい?」


 清美はある町名を告げた。

「ここの冨樫とがしさんって人の船に乗っていくとこを見ましたよ」

「ありがとう!」

「眠いです……じゃあ、わたしはまた寝ますんで」


 プツンと電話が切れる。


(これが当たってたら、スゴイ能力だ)


 ただの夢なのか、そうでないのか確信は持てないが、今はどんな小さな希望にもすがりたい。

 龍郎は冨樫という人物を探しに、小さな港町へむかった。

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