第33話望みはあるけれど
子供の泣き声が響いていた。
何処なの?
浅い湖のような所を、くるぶしまで水に浸かって歩けば、鏡のように透き通る水面が私を映した。
近いのか、次第に泣き声が大きくなるが、子供らしき姿は見えない。すぐ近くだと思ったら、足元から聴こえてくるのだと分かり、下を向く。
足元の水面に映る自分の横で、座っている幼児を見た。その子は、水面の向こう側にしかいなくて、私の方を見上げるようにして泣いているのだった。
『蘇芳?』
見慣れた赤い髪に、膝をついて問えば、いきなり子供の顔面に鮮血が散った。
『きゃあ!蘇芳!』
顔面に縦に傷が走り、血がどくどくと顎を伝った。あの時のことを再現しているのだろう。
だが以前の映像とは違い、悲鳴も上げずに痛がる様子は無い。
ただ流血しながら泣いている。
『な、泣かないで』
水面に手を浸ければ、波紋が広がった。それに合わせて子供の姿が歪むばかりで触れることはできない。何度も繰り返していたら、覚えがある感覚だと思った。
届きそうな近さなのに、水に隔てられた私と傷付いた蘇芳。
それは彼の手の届く場所に身を囲われながら、とても遠い距離にある私達の心と同じではないだろうか。
どうしたら届くのだろう?
この傷付いた子供を抱きしめて慰めたいと思うのに、できないのだ。
泣き声の合間に、舌足らずに何かを喋ろうとしている。このぐらいの年齢の子なら、きっと母親を呼んでいるのだろう。
でも、呼んでも無理だ。彼の母親は既にいないのだから。
『あなたが…………羨ましかった』
口をついた言葉に、自分で驚く。
刃の下で恐怖よりも、息子の身を案じて無我夢中だった赤い髪の女性。自分の身の危険を省みずに最期まで息子を守ろうとした母親。一時でも大事にされていた彼が、恨めしかった。
そうだ、これは妬みだ。私は守られた蘇芳が妬ましかった。本当の〈母〉というものを知っている彼は私とは違うのだと、心のどこかで一線を引いていた。彼の気持ちも悲しみも苦しみも、知らない振りをしていた。
蘇芳は、いつだって私の醜い部分を気づかせてしまう。それが怖くて自分が嫌いで堪らなくなる。
それなのに、自分の醜さを受け入れる度に心が軽くなっていく。
『私は………………お母さんに愛されていた蘇芳が妬ましかった。私の知る私のお母さんは、自分のことが一番だったから。大事にされた蘇芳に、私の気持ちなんて分かりっこないと思ったの。愛されたことなんて無い私の気持ちなんて…………』
『リナは、忘れているだけだよ』
水に浸した手に、私よりも大きな手が重なる。水面の子供は消えて、向かい合うように青年の蘇芳が膝をついていた。
『元の世界に帰りたいと思ったのは、お兄さんに会いたいからでしょう?お兄さんは、リナを大事に思ってた。だから最後に謝ったよね?会いたいのは、リナもお兄さんを家族として愛していたからだろう?』
『あ……………』
『リナの名前は、お母さんが付けたんだよね?一番手のかかるはずの赤ん坊の時にリナを育ててくれたのは、誰?』
耳を覆っても、蘇芳の言葉は頭に直接訴えかける。
『たとえ一時でも、リナは愛されていたはずだ。思い出して』
『やめて……………これ以上』
以前兄とのことを話しただけでも苦しかったのに。私はもう何も思い出したくない。でも…………
『リナは自分が知っているよりもずっと皆に愛されている。癪だけど、それは今もだよ』
『………………いま、も』
ゆっくりと頷く蘇芳の顔は、何もかも知っているようで、私は否定も拒絶も忘れて彼を見上げていた。
『つらいのは…………母や兄に愛されていた記憶があるから、だから私は』
「リナ」
気づけば私は両手で顔を覆って咽び泣いていた。ベッドに仰向けになったままの蘇芳が、私の後頭部を抱えて自分の胸に押し当てる。
「僕はリナを裏切らない。だから僕の気持ちを怖がらないで」
髪を撫でながら、蘇芳が囁く。私がその言葉を心底信じられるまで繰り返し。
「リナが安心できるなら、ずっと言い続けてもいい」
見えなかったものが見え、聴こえなかったものが聴こえてきた。私がずっと拒んでいた景色へと彼が導いてくれたからだ。
囁くたびに、私という渇きへ浸透するようだった。
その言葉が執着を飾った言葉でも、今の私には真実に思えた。
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