第6話磨けば宝石になるけれど2
『化け物め!寄るな!』
淡い赤髪の男が、鼻と口を覆いながら叫ぶ映像が見える。
私が彼の心にある一つの鎖に触れた途端、見えてきたのは、蘇芳が過去に受けてきた数々の言葉の暴力だった。
罵倒する男は髪の色合いから、あの日帽子で顔を隠していた彼の兄だろう。蘇芳よりも薄い色彩の髪、鼻筋ぐらいしか似ていない。
神経質そうに眉間に皺を寄せて、弟を蔑む。
その言葉で切り刻まれていく心の痛みが、彼の鎖に触れた私に直撃する。とても痛くて息苦しい。彼はこんな痛みを毎日のように受けていたのだと思うと居たたまれない。
映像に映るここは塔のようだ。
彼は、幼い時からそこにいたらしい。鉄格子の嵌まった小窓から、ようやく背が届いて外を覗くことができるようになったのは、かなり歳月が経ってから。
塔の高層階にいるのか、蘇芳は眼下に見える庭園を眺めていた。美しい花に彩られたそこを、彼は何の感慨もなく目に映すだけ。その頃には、容易く心は動かなくなっていた。
それは自己防衛反応だ。
心が動かなければ、傷つくこともない。
カツカツと階段を上って来る足音がする。
毎日のように年の離れた兄が来るのは、彼への憎しみと嗜虐の為だと、ぼんやりと理解している。
ああ、まただ。
窓から離れて振り向くと、同じ水色の瞳が憎々しげにこちらを睨んでいる。いつもと変わらず。
『穢らわしい顔を見せるな!』
手で傷を隠しても、他の罵倒が投げ掛けられる。
『お前は人間じゃない!獣だ!』
無表情に突っ立っている彼に、どうにかして傷付いた表情を見せないものかとでも言う風にネチネチとしつこく一方的に兄は叫ぶ。
『人殺しめ!』
数え切れない侮辱の末に叫んだ兄は、一瞬悲しそうな顔をした。
『お前のせいで、母上は死んだんだ!』
その一言だけは、何度もとどめのように蘇芳の心を抉った。
『痛い!』
気を取られていた私は、彼の傷付いた痛みで我を取り戻した。
いけない!引き摺られている場合ではない。
急いで『自己否定の傷』の鎖を掴む。
『消えなさい!』
仇のように強く念じれば、鎖は掴んだ所から切れた。
『ううっ』
蘇芳の心と同調しすぎた。酷く精神を消耗してしまい、早く立ち去りたい気持ちを抑えて確認の為にしばし岩を凝視すると、ミシッと音を立てて小さく亀裂が入っていく。
岩が割れたわけではないが、確実に前進している。
「……………良かった」
瞼を開けると、蘇芳と目が合った。
それだけで鼻がツンとして唇が震えた。
「す…………蘇芳、ずっと苦しかったね」
幼い子供にするように、私は彼の額の髪を撫で上げた。泣きそうになるのを誤魔化すように、唇を噛んだ。
「蘇芳、蘇芳……………生きていていいんだよ」
心を覗いた私は、彼が望む言葉を用意できる。
私が自分の聖女の力を姑息だと思うのは、誰もが秘めたがる心を簡単に覗き見て、容易く解答を導き出してしまうからだ。
だから、せめて心を込めて彼に伝えたい。
「あなたという存在が必要なの。あなたがいなかったら私は悲しい。あなたがいたら私は嬉しい。私はあなたに生きていて欲しい。それだけでいい」
虚ろだった水色に、じわりと生気が宿った気がした。
「あなたは綺麗な心を持った人間よ、化け物なんかじゃない」
彼の兄が言っていたことは、私には信じられない。だって蘇芳が閉じ込められていたのは、かなり幼い時だったはず。何より心の綺麗な彼が、母親を殺すわけがない。
「傷があろうが無かろうが、あなたがあなたであることに変わりないのに」
ためらいながら、蘇芳の傷に指を添わすが、彼は私を見つめたまま。
「蘇芳、あなたは堂々として前を向いて生きていいの。何も恥じることはない。誰かが悪く言うのは、あなたを知らないから。だから、だから………………あ」
驚いた。
いきなり蘇芳の両腕が、たどたどしくも私の肩を引き寄せたから。
「す、蘇芳?」
「あ……………」
座っている彼の膝に、少々辛い体勢で押し付けられた形になった。手をつき見上げると、彼は口を開いたり閉じたりを繰り返している。
「あ………う、な」
何かを話そうとしている?
「なあに?話してごらん」
最初にこの世界にやって来た私は、言葉が判らなくて苦労したのだ。途方に暮れる私を迎え入れてくれて言葉を教えてくれたのはアマナ様だった。
そのことを思い出して優しく促せば、苦労しながら一語一語を区切るように発した。
「り、な…………さま」
「うん、うん!」
喋った!
しかも私の名前を呼んだ。
我慢していたのに、涙がじわじわと瞳に溢れてしまった。
「りな、さ、ま、あ………………れ、し」
もどかしいのか、自分の口に片手を宛てがいながら、一語ごとに顔に力が入っている。
「うれ…………し」
「…………え……………嬉しい?」
こくこくと頷く真剣な表情が、まだ何かを伝えたそうなのに私を見ている。
「うれ、し……………わ、わからな、うれし?」
私も解らなくて、しばらく困ったような顔になった彼をじっと見て考える。
「……………………もしかして、ありがとう?」
「あ、ありが、と」
そうだとばかりに勢い良く返した蘇芳は、もう一度噛み締めるように繰り返した。
「ありが、と、りな、さま」
「………………様はいらない、蘇芳」
「あ、りな」
一方通行だった言葉が返ることが、こんなに嬉しいことだなんて。
「りな」
「うん」
「リナ」
「うん」
表情が豊かとは言えないが、水色の瞳は澄んでいて、私を穏やかに映していた。
自分の膝に零れた私の涙に指で触れ、それから頬に手を伸ばす。
「かな、し?」
「ううん、嬉しくて泣いてるの」
掬いとった雫を不思議そうに眺めていたと思っていたら、蘇芳は舌でペロリとそれを舐めた。
「あ」
私は息を詰めて、その仕草に見入ってしまった。気付いた蘇芳がチラリと私を窺う。
「ええっと、う、うん、色々と学んでいこうか!」
わたわたと言えば、彼は興味深そうな光を瞳に宿す。
蘇芳は、単語をあまり知らないようだ。それに涙は普通舐めないよ?
学ぶことは、自分の視野を広げて生きる糧となるはずだ。
言葉が出るのなら、たくさんのことを教えてあげたい。
肩に置いたままだった蘇芳の指が、やっぱり不思議そうに私の黒髪を弄った。
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