リコエル ✥ In the Cage

「すぐに支度をなさい。お客様がお待ちです」


 久しぶりにランバルドの屋敷に帰ったと思ったら、感情のこもっていない声をかけられた。こんな土砂降りの日にわざわざ誰だろう、と首をかしげるも、答えはない。


 数ヶ月ぶりに戻った自室は綺麗に掃除が行き届いている。埃っぽいままだったらどうしようかと思ったのだが、そこは配慮されているらしい。ワードローブから余所行きの服を取り出して、手早く着替える。

 使用人の手伝いはないが、それは慣れたものである。幼い頃からそれが普通だった。部屋を与えられていただけでも、だいぶ優遇されている。


 妾腹という身分においてエルフィルドが不自由のない生活を送ってこられたのは、ひとえに「魔女の呪い」の影響が少ない体だったからだ。病弱な子供達に混じり、エルフィルドはほぼ健康体であった。

 妾腹とはいえ、ランバルド家の血を半分継いでいる。魔女の呪いを、覆す因子。それがエルフィルドの価値であり、正妻がエルフィルドの提案を受け入れた理由である。


 ゆえに、より現実的な話が舞い込むことは当然、予期すべきではあったのだが。


「はじめまして、エルフィルド。私はオルグウェン。タリファ伯子だ。突然の無礼を許してほしい。あまり君はこちらに帰ってこないと聞いていたからね、急いで予定を合わせた」


 応接室でそう挨拶した長身の男は、タリファの伯爵家子息であった。

 美しい金髪に、優しげな青い瞳。甘やかな声は聞くものをなびかせる。微笑むだけで純朴な少女たちを虜にするのだろう、そう思わせる美麗な顔立ち。

 だが、エルフィルドはその瞳の奥に宿る昏い輝きを見逃さない。


 さて、わざわざなんの用事だと内心思考を巡らせながら、返礼する。その一挙一動を、オルグウェンは注意深く観察し、そして満足げに微笑んだ。


「噂には聞いていましたが、じつに繊細で、優美だ。王立院でも優秀な成績を残していると聞き及んでいます。ランバルド家は安泰でしょう」

「ランバルド家を真に堅固たらしめるのは、タリファ家との結びつきです」


 にべもなく放たれた言葉に、エルフィルドはこの場の真意を理解する。


「感謝なさい。我が家のために、わざわざタリファの家から出向いてくださったのです。お前の婿として」


 結婚。


 息が止まる。

 それは、想定すべきだったこと。

 日々の楽しさに、忘れかけていたこと。


 ランバルド家の次期当主として見なされれば、当然負うべき義務である。


「……なにぶんも驚かれているようです。少し、二人きりでお話しさせていただいても?」


 二の句が継げないエルフィルドの様子を見て、オルグウェンは控えめに助け舟を出す。


「構いません。……エルフィルド、失礼のなきよう」

「はい、奥様」


 ようやく時間が流れ出す。部屋から二人以外の人間が退出し、窓を叩く雨音のみが聞こえる。オルグウェンは席を立ち、ソファに座ったままのエルフィルドに歩み寄ると、少し身をかがめて目線を合わせた。


「前々から話はあったのだけれど、奥方様は君に伝えていなかったようだね」


 それは、退路を断つためだ。拒否権を与えないため。あるいは、時間がなかったのか。そうだろう、エルフィルドはで、ここ最近は特に、ということだから。


(これは、檻か)


 軽く肩に触れた手が、そのままエルフィルドを押し倒す。腕の中に閉じ込められて、エルフィルドはオルグウェンの瞳を見上げた。


「はじめましてとは言ったけれど、私はそれなりに君を知っていてね。もちろん、本人ほどではないけれど」


 その指がエルフィルドの髪を撫で、頬を撫で、おとがいにかかる。


「まだ、夫婦、ということではないけれど。これはほんの挨拶だよ」


 我に返り、覆いかぶさる体を押し戻そうとした手を絡め取られる。そしてそのまま、唇が重なった。


✥ ✥ ✥


 気づけば、雨の中を走っていた。

 傘を差し行き交う人々は、ずぶ濡れの少女のことなど気にも留めない。少女もまた、周りのことなど目に入っていない。


 唇が触れただけ。そう、触れただけだ。その行為の意味を知らぬわけでもなければ、夢を見ていたわけでも、いや、夢は見ていたか。それをするのは、愛を誓うときだと信じていた。

 愛を理解できない少女が、それをずっと遠くの未来だと思っていただけのこと。


 でも、なぜ。その瞬間に、あの人の顔が浮かぶのか。

 なぜ、今もこうして、あの人の声を、微笑みを求めて走るのか。


 冷え切った体で、扉を叩く。返事も待たずに、中へ入った。

 全身雨に濡れ、肩で息をする少女を、リコルドは驚いて見つめる。


「エルフィルド?」


 すみません、先生。どうしてぼくはここにいるんだろう。自分の寮室に戻らなくては。部屋を汚してしまう。頬を伝うこれは、なんだ。


「失礼、します」


 それだけを絞り出す。声も体も、情けないほどに震える。冷たい頬に、暖かな掌が触れた。


✥ ✥ ✥


 冷えた体を毛布で包み、仔猫のように身を縮こまらせる。リコルドの膝を枕にして、エルフィルドはソファの上で丸まっていた。


「雨は、駄目だよ。体力は、すぐには元に戻らないからね」


 それを嫌がるそぶりも見せず、リコルドは優しい手つきでエルフィルドの髪を梳く。雨にしっとりと濡れ、頬に張り付くそれを、丁寧にほぐす。


「……はい、浅慮でした」


 この状況も。リコルドがいくら優しいからといって、生徒と教師という立場を考えれば、あり得ない距離だ。だが触れた温もりから離れたくないのを、まだ冷たく重い体で言い訳をする。彼が何も聞かないのをいいことに、口をつぐんだまま。


「いや……今のは、言い方が悪かったな。そんなことは、君はよく知っているね。だから、休まるまでここにいるといい。……これは、俺の我儘だな」


 部屋は暖かい。それを確認したあと、手つきがあやすものに変わる。頭を撫でる、とん、とんと規則的に訪れる感触に、眠気が増してきた。


 本当は、湯にでも浸かった方がいいものを、エルフィルドのわがままで寄り添ってもらっている。このまま眠るのは、さぞ心地よいことだろう。

 油断すれば微睡みの海に落ちそうな意識をなんとか繋ぎ止めて、腕を持ち上げ、リコルドの手を取る。それを頬に押し当てて、うすら重い瞼を持ち上げた。


「帰さないでください、先生——」


 そうして唇から紡がれたのは、うわごとだった。

 本来なら熱情とともに囁かれるはずの睦言は、あまりに絶望に満ちていた。ここにいていいという言葉を自分の我儘だと言う彼を、離したくない愛おしむ。藁にもすがる思いを、リコルドは一呼吸置いて受け入れる。


「分かった。じゃあ今日は一日、ここで補習授業かな」


 重なった手指の冷たさを確認するような間をおいて、もう一度、頭を撫でられた。


 ——ああ、けれど、その前に湯を浴びて。体はきちんと温めてあげるように、ね。


✥ ✥ ✥


 ……何を口走った?


 自室の浴室の湯船に浸かりながら、体も温まり目元の腫れも引き、思考が巡るようになって、エルフィルドは膝を抱えて顔を覆っていた。


(錯乱していたとはいえ、非常識にもほどがある……!)


 濡れた体のまま抱きつき、毛布に包まれ、膝の上を占拠して。まして帰さないでくれなど。慎ましさとは程遠い言動だ。呆れられたかもしれない。明らかに問題である。


(はしたない…ふしだらな奴と思われていたらどうしよう)


 髪を乾かし、いつもの衣服に袖を通し、身だしなみを整える。鏡の前に立った姿は、いつもの理性的なそれだ。……と、思いたい。


 部屋を出て、研究棟に移動する。このひどい雨の中でも、寮と研究棟は屋根のある渡り廊下で繋がっているから、再び濡れる心配はない。

 研究室の扉の前で深呼吸する。幸いここまで誰ともすれ違わなかったが、なんだか見られては気まずい気がして、左右に人影がないか確認してから、扉を叩いた。


「どうぞ」


 今度はきちんと待ってから扉を開く。おずおずと顔を出したエルフィルドに、リコルドはいつも通りに微笑む。


「いいよ。入って」

「は、はい。……失礼します」


 飲み物を用意し始めたリコルドの背を見やり、エルフィルドは扉を後ろ手に閉めると、ソファへと腰を下ろした。先ほどまで、自分が丸まっていた場所だ。

 恥じ入る思いと、いつも通りに応対してくれることへの安堵と、正体のわからない落胆とが綯い交ぜになった心を落ち着かせる。


「ご迷惑をおかけしました」

「気にすることはないよ。寒さは、思考を鈍らせる」


 こと、と音を立てて目の前に置かれたのは、ココアだった。甘やかな香りが広がる。


「……ご迷惑ついでに、ひとつ、話を聞いてはくれませんか」


 無言の頷きとともに、リコルドが向かい側に座った。

 ここに来た理由を話さなければならない。なんでもありませんで片付けるには、少々やりすぎた。そう言っても彼は頷いてくれるだろうが、筋は通しておくべきだろう。


「……先生は、例えば。望んでいない相手と結婚することになったとして、相手を愛せますか」


 どこから話したものかと考えを巡らせたのち、ふと浮かんだ疑問を投げかける。


「それは、難しい質問だね。けれど、うん。そうだな……一概には、言えないと思う。結婚するのは、一度だろう? 何度も経験するものでは、ない。相手を愛せるか愛せないかは、その相手によると、思うよ」


 至極まともな意見だ。オルグウェンのことに想いを馳せる。彼を愛せるかと言われると、あまり自信がない。側から見れば魅力的な好青年なのだろう。だが、口付けられたときに見えた表情は、そう、まるで弄びがいのある玩具を手に入れたような、昏いものだった。


「……ぼくは、わざわざ会いに来てくれた許嫁を拒絶してここに来ました。礼を失した行為であると思います。しかし彼はぼくと結婚するわけではない。ランバルド家と結婚するのです。ぼくは、愛する努力を、すべきでしょうか」


「……努力か……難しいね。そうだな……君は、それを避けたかった。それは本能、なんじゃないかな」


 理屈ではないことを、彼は否定しない。


「君は、強いよ。俺は、それを知っている。だからいつも、思うんだ。そんな君が辛く思うなら、それはきっと余程のことなんだろう、と。……君が望むことが叶えばいいと、思う、けれど」


 言い淀むリコルドの表情が変化する。それは、どこか苦々しく。


「けれど……俺は。君が望みを叶えるために、自ら君という人間を捨ててしまいそうなことが、とても……やるせない」


 ふつりと、言葉が途切れる。

 自分を、捨てる。それは、オルグウェンとの結婚を受け入れることで失われるもの。

 エルフィルドではない、次期当主として判断することが求められる状況において、この人は、エルフィルド自身のことを、慮ってくれる。


「……すみません。そのようなお顔をさせるつもりでは」


 リコルドがはっとしたように表情を引き締める。ああ、この人でもそのような顔をするのだと、意外に思った。


「ぼくが欲していたものは、ただ……名前を呼んで、抱きしめてもらえる……安寧です。ありのままのぼくでは、得られない。だから、ぼくは、ランバルド家にふさわしいぼくを、演じてきた」


 気が緩んだせいか。そんな弱音がこぼれだす。本音、かもしれない。


「君の望みと、君の願いは……共存出来ない、コトなのだろうか?」


「似て非なるものなのです。そして、ぼくがどちらも選べないのは、ぼく自身の弱さゆえなのです。ここで得た皆の優しさや温もりを、手放せない。けれど、奥様がくださるものも、諦められない」


 ふ、と落とした視線をあげる。

 ——諦めさせてはくれませんか。

 そんな、無責任な言葉を飲み込んだ。


「……俺は、君に言葉を差し挟めるような立場ではないけれど」


 一つ一つ、ゆっくりと、それはまるで、自分に言い聞かせるかのように。


「エルフィルド。よく、考えて。最初から、もう一度。君は、何が欲しくて、どこに行きたくて、何を、諦めたくなかった? 今の君も、本当に同じものを、望んでいる?」


 リコルドの問いかけに、エルフィルドは言い淀む。

 それを認めてしまえば、それはランバルド家への裏切りだ。許されるはずもない。


「僕は……、みんなと一緒に、いたくて」


 だが、許されざると分かっていても、心を止められないのなら——人は、どちらに従うべきなのか。


「よく、考えて。その、心のあり方を。君はきっと今、岐路に立っていると、思うんだ。俺は君の望みを阻害しない。けれど、君は……とても苦しそうだ。その苦しみは、乗り越えたら君のためになるものだろうか?」


 信じている。苦しんだ分報われる時が来ると。信じていた。

 わかっている。約束が守られないであろうことは。優しい腕はどこにもありはしないことは。

 わかっていた、だろう。


「ふッ……ぅ、」


 溢れる。口を押さえて、嗚咽を封じても、涙は止められない。


「……泣かせたい訳では、ないんだよ」


 優しい声がする。伸びてきた手が、一瞬躊躇うように止まって、それから、震える頭に、そっと乗せられた。


「泣かせたい訳ではない。けれど君は、泣いていいよ」


 ゆっくり、頭を撫でられる。それはエルフィルドにとって、心の安らぐ時間だ。緊張を解いて、エルフィルド自身でいられる合図。


「ご……めんなさ、」


 涙はとめどなく。枯れるまで、言葉はない。


✥ ✥ ✥


 愛されたかった。

 ぼくがぼくであるということを、認めて欲しかった。

 家の名に恥じない人間でなければ注がれぬ愛を、求めたわけではなかった。


 だからといって、家を捨てられるほど非情にもなれなくて。

 でも皆はそんなぼくも、受け入れてくれるだろう。


 選択肢はふたつにひとつではないと、教えてくれた皆ならば。


「——っ、ふ」


 今日も、唇が重なる。

 執拗に、追い詰めるように蠕く舌に絡め取られそうになる意識を、保つ。

 組み敷かれ、縫いとめられた体は抵抗の機会さえ奪われているが、オルグウェンはそれ以上のことをしてこない。

 ただ、口付けを繰り返す。毎夜、会うたびに。

 そこには、愛情のひとかけらもない。


「強情だな」


 わずかに離れた距離から、声が落ちる。冷たく、首筋に這う、支配者のそれ。

 滲んだ視界では、オルグウェンがどんな表情をしているのかまではわからない。だがその青い瞳を睨めあげて、浅い呼吸を整える間も惜しんで、エルフィルドは反駁した。


「ぼくは、ぼくを愛する人と結ばれる」


 ぱち、とオルグウェンは目を瞬く。それから、可笑しそうに肩を震わせた。


「私の婚約者殿はなかなかロマンチストだ。君はもっと、現実的に物事を考える人間だと思っていたんだけれど」


 弱々しい精一杯の抵抗にしか見えないだろう、それでいい。今はまだ。

 支配できると、思わせておけ。


「まあ、いい。教え込むのは、私の仕事だからね」


 手袋をはめた手が、胸元を、脇腹を、腰を撫でて降りる。いつでも暴けるのだと、言うように。


「反抗的な態度もかわいらしいが、加減を間違えないことだ。君が、ランバルド家の未来を背負うつもりなら、尚更」


 耳元で囁かれる。それに、歯噛みした。


 ランバルド家を捨てて出奔するという選択肢もあった。それをしないのは、エルフィルドがランバルド家を救う選択をとったからだ。

 ランバルド家はエルフィルドを愛さない。だが、エルフィルドはそれを受け入れる。魔女の呪いに侵された、愛を忘れた哀れな一族を救うために。


「せいぜい頑張りなさい」


 嘲笑う男の髪を掴む。オルグウェンは意にも介さず、エルフィルドの細い腰を抱き寄せると、呼吸を奪った。

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