リコエル ✥ His Cradle

 端的に言うと具合が悪い。


 熱がある。関節も痛い。目眩もする気がする。明らかにおかしな体調を押して、なぜ授業に出てしまったのか。

 一度くらい、成績には響かない。授業は出席することが前提となっているから、出席率自体が加味されることはない。単位修得の条件にはなるにしても、だ。


 もはや意地に近いものがあるのは分かっていた。分かっている。王立院の最終学年、今年こそ首席の座につかねばならない。そのためには、どんな減点も見逃せない。


 いや、馬鹿か?


 ぼくは今ひどく後悔している。授業内容を頭に入れるのも、具合の悪さを悟られないよう振る舞うのもかなり体力を使う。かといって途中で席を立つのは余計な心配をかける。特に、教壇に立つ教師——リコルド先生には、気負わせたくない。


 この授業限りの相手ではない。時にはお茶もするし、相談もするし、気まずいからといって避けられる対象でもない。何よりぼくの事情を鑑みて声をかけてくれる、そういう人だ。……いけない、思考がばらばらだ。本格的にまずい。


「王子、王子。授業終わりましたよ」


 つん、と後ろの席の後輩につつかれて我に返った。気づけば生徒たちは荷物をまとめて教室から出ようと列を作っている。いつのまにか、そう、いつのまにか、授業は終わっていた。課題の内容が板書されていなければ、誰かに尋ねる羽目になっていただろう。


「あ、ああ。そうだね。ありがとう」


 取り繕うように返事をして、鞄にノートと筆記用具をしまい込む。

 今日の授業はこれで終わりだ。急いで部屋に戻って、薬を飲んで、身支度をして休もう。


 そうして、踏み出した足がかくんと折れた。


 足元が沈み込むような奇妙な感覚。ぐるりと天地がひっくり返り、引き倒されるように床に倒れこんだ。

 一瞬、全ての感覚が失われ、そして止まっていた時が動き出す。


 静寂と、ざわめき。声もなく見守っていた生徒たちが状況を理解し、駆け寄ってくる。それを、柔らかな声が制する。


「大丈夫だ。軽い貧血かな。エルフィルド、」


 軽く助け起こされてようやく意識がはっきりしてきた。

 ああ、まずいな、とんだ失態だ。こんな——こんな。


「申し訳ありません、先生。……ご迷惑を」


 頬が熱いのは、目元が滲むのは、羞恥か病熱か。それでも呼吸に乱れは見せず、立ち上がろうとする。

 また、くらりと目眩がした。とっさに伸ばした手が掴んだのは、彼の腕だった。


「……エルフィルド」


 呼ばれて顔を上げれば、驚くほど近くに彼の瞳が見えた。

 思わず息を呑む。それに、彼は続けた。


「先に言っておく。俺は、君がどのような立場でも、こうするよ」


 失礼、と耳元で囁かれると同時に、ふわりと体が浮いた。


「あ、」

「君がこれを恥だと思うなら、ローブを貸すから、被っておくといい」


 分かっている。この人はぼくに恥をかかせたいわけじゃない。まったく逆で、気遣ってくれている。

 その考えに至るや、ふっと体から力が抜けた。


 人は、病気をすると心も弱くなるというが。

 ならばこの安堵は、心が弱くなったせいなのか。


「俺は、何も見ていない。だから少し、休みなさい」


 はい、と驚くほど素直に、頷くことができた。

 とんと広い胸板に頭を寄せ、優しい鼓動に誘われながら、そっと目を閉じる。


 この人は、見ないふりを、してくれる。

 ぼくの弱さも、矛盾も、きっと、涙でさえも。


 近くて遠い、心臓のざわめきを聴きながら、ぼくは目を閉じた。

 そして、彼が編むゆりかごの波間に、揺蕩うのだ。


✥ ✥ ✥


「少し眠ると、いい」


 そう告げれば、彼女はおとなしくそれに従う。


 抱き上げた体は、印象よりも幾分か華奢に思えた。

 無理をしているのだ。けれども、そのような気遣いは、この強くて儚く、一途な人間に対しての侮辱に当たる。だが、それでも。


「エルフィルドのことは先生に任せて。みんなはそれぞれの仕事をこなしなさい」


 ……伝わる体温に瞑目する。

 無理をするなとも、隠すなら徹底的にしなさいとも、言えない。そんな無責任なことは。

 それに、言ってしまえば最後、この腕の中の儚い生き物は、本当にそれを成してしまうだろうから。


 彼女の傍観者でいる。

 そして、いつか忘れられる程度の存在であれば良いと思う。


(けれど、君は……)


 ひとりで、大丈夫だろうか。

 ひとりきりで、生きるのだろうか。

 君を救うモノは、ないのだろうか。


 ——それも勝手な、話だけれど。

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