リコエル ✥ Dancer in the Mirror
新任の先生に挨拶をすることになった。
なんてことはない、取った授業の担当が交代になり、まだ赴任したばかりで慣れないことの多い教師に必要な書類を届ける、それだけの軽いお役目だ。
「君は、」
研究室を訪れ、つつがなく自己紹介を終えて目的のものを手渡し、その場を辞そうとした背中に声をかけられる。
さて、呼び止められるようなことをしたか。これから彼が注意を向けるべきは手元の書類であっていち生徒ではないはずだが。
そんな疑念が顔に出たか。重厚な黒を纏った長身の青年——リコルドは、名簿から顔を上げて、色素の薄い瞳を細めた。
「君は、エルフィルド嬢、かな? それとも、エルフィルド君、だろうか?」
ああ、と心配は杞憂に終わった。それは至極当然の疑問であろう、と。
いくらエルフィルドが自らを男だと言おうと、ランバルド家が嫡子であると主張しようと、学籍というものは誤魔化せない。ランバルド家の権力を濫用すればできないことはないのだろうが、ランバルド家の女主人はそれをしなかった、というだけの話。
「その名においては、ぼくは男ですよ、先生」
ゆえに淀みなく、疑いなく、はっきりと告げる。だが、それで彼女の輪郭が定まるわけではない。
「……家の事情で、そういうことになっているのです。ランバルド家の人間としてふさわしいぼくであるために」
リコルドは目を瞬き、小首を傾げた。「その名では」口の中で言葉を転がし、しばし思案する。
「では、エルフィルド君。俺は、リコルドだ。君を指導するには少々心許ないかもしれないが、どうぞよろしくお願いするよ」
律儀な人だ、とエルフィルドはリコルドを眺めた。同時に好感を抱く。挨拶というのは、大切なものだ。これきりかもしれない生徒を記憶にとどめようとしてくれているのは、純粋に嬉しい。
にっこりと微笑みを返し、優雅に礼をして踵を返す。
完璧なまでの所作だ。これがエルフィルドという少年であるとでも言いたげに。
「けれど、」
踏み出そうとした足が止まる。独り言にしては無視できない声量であり、かといって、会話をしようというほどの積極性もない、そんな奇妙な距離が開く。
「話を聞く相手には、なれる。君がそれを必要とするのなら、いつでもここに遊びにおいで。お茶くらいは出せるよ」
微笑みをたたえたまま、エルフィルドは振り返った。口元が緩んだのは、決して社交辞令などではなく、幾分かの期待と安堵を含んでいるようにも見える。
「はい、……先生。ありがとうございます」
それは一瞬の綻びだった。危うい均衡の上で踊らねばならない演者の、素顔とも言うべきか、あるいは、秘められた一面か。
残されたリコルドはひとり、思惟に耽る。少女が背負うものの大きさについて。
「これは……大変そうだ」
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