春楡の邂逅〈前〉



「あ……」


 大教室の扉の前でもじもじとしているうちに、予鈴が鳴り、講義が始まってしまった。


 ——どうしよう。また失敗だ。


 今から教室内に入って行ったら、遅刻と怒られてしまうだろう。科目は魔法薬学で、この時間の担当はあの規則にうるさいシヴェリス・エーレンハウトである。


(で……でも、)


 落第。先日シヴェリスから言われたことが頭をよぎる。落第など、高い学費を支払って王立院に入れてくれた父に申し訳が立たない。


 深呼吸ののち、そっと扉に手をかけ、ゆっくりと開く。遅刻したことを謝って席に着く、その段取りを頭の中で繰り返す。シヴェリスは皆の前でルネリィを糾弾したりはしない、それだけは分かっていた。


 しかし運の悪いことに、教科書を音読していた生徒がルネリィに気づき、ぱたりと読むのをやめてしまった。途切れた声に気づいたシヴェリスが顔を上げ、ルネリィを見る。


「そこまで。ルネリィ・アルテレシア。教科書の17ページを開いて、続きから——」


 シヴェリスの声に、生徒たちがルネリィを振り返る。集中する視線に、ルネリィの体は石のように動かなくなってしまった。


 ——嫌だ。怖い。


 喉がからからに渇き、視線が泳ぐ。どこを向いても誰かの目がある。シヴェリスはそれに対し、教壇を軽く叩いた。


「……っ!」


 生徒の視線が、ルネリィではなくシヴェリスに向いたその瞬間、ルネリィははじかれたように教室の外へと飛び出していた。


✥ ✥ ✥


 もつれる足をなんとか動かして駆け込んだのは、中庭の薬草園だった。


 魔法薬学の実習が行われる場所だが、幸いにして今日はどこも授業がないらしい。人の気配はなく、ルネリィはほっと息をつくと、ローズアーチをくぐる。


 ——また、失敗だ。


 シヴェリスにまた呼び出されるであろうことを考えると気が重い。彼が怒っているのではなく、心配しているのがということがわかっているからこそ、余計に落ち込んでしまう。


「はあぁ……」


 盛大なため息をついてとぼとぼと歩いていると、つま先が何かにぶつかった。


「うぐっ」

「……?」


 石、ではない。もっと柔らかいものだ。しかも、何かうめき声が聞こえた。


 ルネリィはちょっと後ずさって、をよく見た。


 人が倒れている。


「!?」


 ルネリィの頭は再びパニックに陥った。昼寝をしている風ではない。その体は時折びくびくと痙攣し、明らかに様子がおかしい。手には生の薬草が握られている。


「あ、あの。しっかり……!」


 原因はそれだろうか。肩を軽く揺すると、青年は軽く咳き込んで目を開けた。しかし、焦点が合っていない。

 中毒だろうと予想したルネリィは、鞄の中身をひっくり返して水筒を取り出すと、青年をなんとか抱き起こしてそれを飲ませた。


 青年はゆっくりと水筒を空にすると、ほっと息をついた。少なくとも急性症状は緩和されたらしい。


「いや、助かった。ありがとう。珍しい草を見つけたから、どんなものかと試したんだけど……」


 頭をかきながら、居た堪れなさそうに笑う青年は、しかしまだ気分が良くないのか再び地面に横たわる。


 ……変な人だ。


 第一印象はそれだった。

 だが、不審者——ではなさそうだ。その人物が身にまとっている黒いローブには、見習いではない、一人前であることを示す魔法使いの紋章が刺繍されている。


 すなわち、王立院の教師である。


「ところで、今は授業中じゃないのか? どうしてここに?」


 教師として至極真っ当な疑問に、ルネリィは口をひき結んだ。ああ、この時間は授業を入れていないんです、と笑って嘘がつけたらよかったのだが、ルネリィはそこまで器用ではない。


「……せ、先生。保健の先生を……呼んできます」


 質問には答えず、周囲に散らばった鞄の中身を急いで拾い集める。そしてすっくと立ちあがり、そのまま踵を返して走り出した。


「え? あ、ちょっと」


 慌てたような声がしたが聞こえないふりをする。


 ——ああ、まともに話もできないなんて。本当にだめな子。


 拾い忘れた生徒手帳には、気づかなかった。

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