第3生 紅緋

 神は不安だった。力を失い人間となったあの神が、自分の事を忘れたせいでこの場所へ訪れないのではないか。またはこの場所へ来れない人間へと転生し続けてしまうのではないか。と。

 神の名は紅緋ほんひという。この神が待つ人間の元は蓮華れんほあという神だった。紅緋は燕泓えんおうという神によって神となった。

 紅緋という人間は確かに死んだ。しかしその魂まで消滅したかというと、それは違う。元々神として存在していたかの魂は永遠に廻ることを許されている。逆を言えば、魂の消滅は許されていない。


 紅緋はこの禁池から出ることは叶わない。紅緋は燕泓との契約の為、この禁池に縛られている。だから蓮華が皇族以外に転生した場合、紅緋と逢うことはほとんど不可能だ。

 不安な日々が続き、百何年が流れた。神はいい加減にしてくれと、悲しくなった。そんな時に姫は現れた。

「はて……あなた様は、何ゆえにこの場所へおりまするのか?」

 以前逢った時と同じ姿で、蓮華は現れたのだ。

「蓮華……」

 思わず紅緋は呟いたが、姫には聞こえなかったようだ。

「来て、くれたのか?」

 こちらの呟きは聞こえたようで、姫は背筋を伸ばしたまま神に答えた。

「ここに、来なければならないと感じたのです。

 妾の名は……香楓しゃんふぉん

 しっかりとした瞳の輝きであった。以前の蓮華は儚い印象があった。しかしこの姫の印象は、強く安定した印象であった。

 香楓はこの神に引っかかりを覚えた。何か、ある。


「余の名は、紅緋だ。

 そなたをずっと待っていた」

 その言葉を聞いたとき、香楓はやっとこの感じの正体を理解した。おそらく香楓と紅緋は前世の時からの仲だったのだ。紅緋の反応がそうだった。それに、この庭には古くから言い伝えが多く存在している。それに関わりがあるのだろう。

「申し訳ありませぬ、紅緋様。

 香楓は、あなた様の事を覚えていないのです」

 神は残念そうな顔をしたが、香楓は仕方がないことだと思った。人間は、転生する際に記憶を全て消されてしまうと聞いている。そうしなければ、人間が一人以上の人生に耐え続けることが難しいからだといわれている。故に、ごくたまに前世の記憶を持って生まれてくると、その人間は常に不安定であるそうだ。

 しかし香楓は不安定とはいえない部類の人間である。きっと前世の記憶を思い出すことはないだろう。

「紅緋様、妾たちの話を聞かせてはくれませぬか?」

 香楓は蓮華とは異なり、積極的な人物のようであった。




 香楓は賢く、強く生きてきた女性だった。紅緋は蓮華とは異なる部分に首をかしげながらも、嬉しく思っていた。紅緋が皇子だった時、こんなに逢える日々はなかったからだ。忙しく、毎日を駆け抜けているような日々だった。愛しいと感じるようになってからあの神と逢いたいと何度思ったことか。愛しい神のいる禁池から遠く離れた土地で、何度想いを馳せた事か。

 毎日のように愛しい存在と逢えるのが、これ程までの歓びになるとは知らなかった。紅緋は幸せだった。おそらく香楓も幸せだろう。

 しかしやはり、幸福は唐突に終わりを告げる。

「紅緋様、妾……他国の皇子と祝言を行うことになりました。

 妾は永遠にあなた様の事をお慕いいたします。

 しかし妾は一国の姫。運命と向き合おうと決意致しました」

 香楓の表情は寂しそうであったが、自らの運命を肯定していた。

「妾は、あなた様に愛された事。忘れることはありませぬ。

 寿命を全うした時、ようやく妾はあなた様と結ばれることができる……」

 香楓は強い女であった。紅緋にはとても真似はできなそうだった。香楓は初めて紅緋の近くへ自ら進み出た。そして全てを包み込むかのような微笑で――

 神に口付けた。




 その後、香楓は他国へ嫁いでゆき、二人が逢う事はなかった。香楓は賢妃として寿命を全うした。香楓は本当に賢い女性だった。ただ一つだけ間違いを犯した。紅緋へ一言、もしくは相談する事をしなかった。それが再度のすれ違いを生む事になってしまう。

 紅緋は、蓮葉れんしょうの時同様、人間であれば良かったのにと思っていた。そうすれば彼女と離れ離れになる事も、この禁池に縛られる事もなかったのだから。

 香楓は紅緋に秘密で、ある契約を燕泓に持ちかけていた。その契約とは香楓が無事に寿命を全うできた時、彼女を神族にするといったものであった。代償は、もちろん己の神力。

 香楓は無事に神族となった。しかし彼女の目的であった「紅緋と結ばれる」というものは叶わなかった。

 神力を失った紅緋は、輪廻の渦へと入ってしまった。勝手に一人で行ってしまったのだ。香楓は深い憤りを覚えた。待っていてくれると言っていたのに、彼は勝手に先へ行ってしまった。

 だからといって自分まで輪廻の渦に入るのは利口ではない。

 香楓は悩んだ末このまま神でいる事にした。考える時間はいくらでもある。彼と再び出逢えるまで、どうすれば結ばれる事ができるかを考えていよう。

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