第7話

「…ッ」


 汰月は、何も言わずに体育館を飛び出していった。直後、再び静寂が訪れた館内に、小雨の降る微かな音がさわさわと響き渡る。

 …体育館に広がる薄闇の中で、私はぼんやりと高い天井を見上げた。

 これで、良かったのだろうか。慕ってくれていた後輩を拒み、傷つけ…自分だけ幸せになる道を選んで。

 先輩として最低な事をしたな、とふと息をつくと、不意に「零音」と聞き慣れた声が私を呼んだ。

「碧…聞いてたの?」

「部室にボール忘れたんだよ。んで戻って来てみたら、体育館から零音と鷲尾の声がするじゃねえか。…色々と納得したよ。アイツのプレーはアウトサイドが圧倒的に強いけど、インサイドでの動きはPFそのものだから…。…一回、鷲尾に訊いてみた事があるんだよ。お前だったら他のポジションも出来るだろうに、何でそこまでしてSGに拘るのかって。そしたらアイツ…『自分自身を認めてもらいたいからです』って」

「……」

「その時は何の事か分からなかったけど…さっきの話聞いて、ようやくピンと来たよ」



「そういやアイツの…鷲尾のシュートモーションが、零音のと酷似してたって」



「…そっか」

 そっと目を伏せると、碧は「…帰ろーぜ」と、どこかぶっきらぼうにその手を差し出した。骨ばった大きな掌に自分の手を重ねれば、ギュ、と痛いくらいに絡みつく互いの指。


「…ねえ、碧」

「ん?」


 窓から入り込んだ冷気が、火照った私の頬をひんやりと撫でて行く。

 …碧は、気付いていたのだろうか。加入当初から私に向けられていた汰月の想いに。

 もしかしたら、純粋な憧れだったのかもしれない。私の歪んだ想いとは相反して、ただ単純に慕ってくれていたかもしれないのに…。

 でも…そんな事は関係無い。私が選んだのは碧だから。他なんて全てどうでも良いのだから。



 …なんて言ったら、『彼』は私を責めるかな。


 ふと、自嘲げな吐息が口をついた。



「…大好きだよ」

「おう」



 隣で背けられた頬が僅かに赤みを差したのに気付いて、私は小さく笑みを零した。




 誰かの幸せは、誰かの悲しみの上に成り立っている。


 …そんな事、分かっていたはずなのに。


 それでも…彼と一緒に居られるのなら、それで良くて。





「……」





 私は、骨ばった指を強く握り返す。


 どんな犠牲を厭っても良い。私はただ、愛しい人を離したくないだけなのだから。







 静かにガラスを歪める雨は、まだ止みそうにない。

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Ruin 槻坂凪桜 @CalmCherry

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