キラキラと輝くものたちへ

針生省

第1話 電気ブラン

 住んでいるアパートの一室は、呼び鈴が壊れていた。出掛けようと思って玄関を出ると、郵便受けの入口に運送会社の不在届が挟まっているのに気付き、僕はまたかと渋い顔で頭を掻く。


 その呼び鈴は玄関横のボタンを押すと、室内に備え付けられた受話器がピンポン!と元気に音を鳴らす仕組みなのだが、僕の部屋だけは何度押しても一切音はしない。住み始めた頃は、まだ微かに音が鳴っていた記憶があるが、時の経過と共についには何の音もしなくなってしまった。


 それでもたまに、ピンポン!と音が聞こえてくる事がある。慌てて付けていたイヤホンを外し、玄関の扉を開けると、ジェットヘルメットを被った郵便局員が「書留です」等と言って、隣の部屋の兄ちゃんに封筒を渡している。隣の部屋の呼び鈴が聞こえてくるほど、壁の薄い部屋でもあった。


 そうなると困るのは、インターネット通販等で商品を注文した時だった。一日中家の中に居る日であっても呼び鈴は鳴らないので、配達員は留守中だと思って不在届を残して帰ってしまう。だからネット通販の時は最寄りのコンビニを配達場所に指定して、そこまで取りに行くという事をしているのだが、どういうわけか稀にコンビニ受取を選択できない商品があったりする。今回もまさにそのパターンだった。




 翌日、ようやく僕は商品を受け取った。再配達の申し込み時に、自由記載欄に「呼び鈴が壊れているので、ドアをノックするか電話をください」と書いたところ、配達員がドアをノックしてくれた。


 頼んでいた商品は二つ。一つは瓶入りの酒、もう一つは二十四本入りの炭酸水の箱。それらを僕は慣れた手付きで箱から取り出し、酒瓶と何本かの炭酸水を冷蔵庫に入れた。お察しの通り、酒クズである。


 休日は基本的にやることが無い。出掛ける用事がある日はいいが、それ以外は基本的に家の中に居る。意味も無く外を出歩くことはあまりしない性分だ。今書いているこれのように、最近は文章を書くことを始めたが、それ以外の時間は、スポーツ中継を見たり、映画やアニメを見たり、本を読んだりするしかなくなり、それも終わるとじゃあ酒でも飲むかという話になってしまう。


 今年に入ってから、酒の量が増えた。元から比較的飲む方ではあったが、休日は出掛ける事が減り、家に籠るようになってしまったので尚更そう思う。深酒はあまりしないし、嗜む程度の量をひたすら毎日続けているような感じなので、それほど問題だとは思っていないが、「貴方はアル中ですよ」と医者に言われたら、「でしょうねぇ」と笑って言えるくらいの心構えではある。


 いいのだ、幸い今は日々の辛い事を忘れる為にアルコールが手放せないといった感じではない。比較的ちゃんとした酒を、毎日美味いと思いながら飲めている。それでいいのだ。


 僕は、これ以上ないほど不味い酒の味を知っている。いつも飲んでいるお気に入りの酒のはずなのに、あの時は未調整のアルコールをそのまま飲んでいるかのような不快な味だった。口に含むのもはばかられ、そのままシンクに流して捨ててしまいたかった。でも、酔って少しでも楽になりたいから、無理矢理に飲んだ。酔っても大して楽にはならなかったが、飲まないよりはマシだった。あんな不味い酒は、もう二度と飲みたくない。




 今回購入したのは、『電気ブラン』という酒だった。

 浅草に神谷バーというバーがある。明治から続く由緒あるバーだが、その創業者が作ったのがこの電気ブランだ。その名の通りベースはブランデーで、そこにジン、ワイン、キュラソー等が配合されている。電気と名がつくのは、電気がまだ珍しい物だった製造開始当時、ハイカラな物には「電気」と名付ける風潮があった事に加えて、度数が高く(当時は四十五度もあった)、口に含むとビリビリと舌が痺れる感覚が味わえる為だという。なるほどそういう頭の悪い酒は嫌いではない。


 三ヶ月ほど前、太宰治の『人間失格』を初めて読んだ。比較的本は読むし好きな方だと自負する割には、中学校の推薦図書の定番のようなこの作品すら読んだことが無かった。もしこれを、中学校当時に読んでいたらどう感想を持っただろうと思う。きっと良い方向にも悪い方向にも影響を受けまくっていたはずだ。二十代後半になった今の僕にでも、まるで巨大な鉛玉でぶっ叩かれたような衝撃を与えたのだから。


 その『人間失格』の中にも電気ブランは登場する。場所柄、神谷バーは当時の文豪たちも足繁く通う場所であったようだ。あくまで登場人物の台詞としてであるが、太宰は電気ブランについてこう書き記している。


 ―酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し―


 なるほど、これはますます頭が悪そうだぞ。そう思って僕は、ネット通販でさっそく電気ブランを購入したのだった。




 冷蔵庫の中でよく冷えた電気ブランをグラスに注ぐ。冷やしてストレート、というのが一般的な飲み方のようだが、その他ロックやハイボールでも美味しく飲める。とりあえずはという事で、その日は王道のストレートを試してみる事にした。


 電気ブランのアルコール度数は四十度。それをストレートで飲むのだからチェイサーの類は必須だ。そして実に頭の悪い事に、本家神谷バーではビールをチェイサー代わりに飲むことを推奨している。酒の口直しに酒を飲むのだ。頭が悪いを通り越して最早サイコの域なんじゃないかと思うが、僕はまったくもって嫌いじゃない。さっそくグラスを棚から出してきて、そこにビールを注いだ。


 結果的には、この飲み方は最強だった。電気ブランはキュラソーが強めなのだろうか、想像していたよりも甘みが強い。だから度数の割にはするする飲めてしまうのだが、四十度の酒を飲んでいる事に変わりはないので、着実に口内にダメージが蓄積されていく。噂の通り舌は痺れ、喉から食道、食道から胃へと、消化器官がカッと熱くなっていく。それをビールで流すのがたまらなく美味かった。一口目のビールのあの美味しさを何度も味わえる……と言ったらまこと大袈裟だが、まあ相性が抜群に良い事は確かだった。サイコな飲み方は最高なのである。




 しばらく電気ブランを堪能して、思っていた以上に酔いが進んでいる事に気が付いた。電気ブラン自体は飲みやすく、ビールもチェイサー代わりとはいえアルコール度数五度の立派な酒なので、交互にぐいぐい飲んでいたらそうなるのは当たり前なのだが、そんなに沢山の量を飲んでいる気がしないのだ。だからついつい飲み過ぎてしまう、そんな魔性の酒だった。太宰の言う事は間違っていない。


 甘さがある為飲みやすく、色々な飲み方にアレンジできる。この酒が生まれた明治の浅草を想像しノスタルジックな気分にも浸れるし、「色んな文豪も飲んでたんだって」と話のネタにもできる。今後、お土産として持っていく酒として重宝しそうだ。そして同時に、酒に弱い人にはあまり勧めないようにしようと思った。




 次の日は仕事だった。一人で飲んでて二日酔いなど、しょうもないにも程があるので、早々に切り上げて眠る事にした。布団の中で心地よい酔いに包まれながら、また新しいお気に入りの酒に出会えた喜びを感じた。別に酒に限った話じゃない。新しい何かを知れる時ほど心が震える瞬間は無く、そんな知的好奇心が満たされる瞬間が僕は好きだった。


 そして何よりも、またあの人に新しい何かを与えて貰ったと、その実感が嬉しかった。あの人が居なければ、僕は未だに『人間失格』を読んでいなかったかもしれないし、電気ブランを飲むことも無かったかもしれない。あの人の痕跡を追い求め、何を見つけ、それで何かを学んだ時だけは、まだあの人とどこかで繋がっているような気がした。


 僕は今、文章を書いている。子供の頃からよく本を読んだし、逆に書く事もしてきたが、それらはただ暇つぶしの余興に過ぎなかった。趣味に過ぎなかった。読みたいから読み、書きたいから書いた。それだけだった。

 だが今は、書かなければならないと、そう思っている。別にこれが仕事なわけでも、誰かに指示されたわけでもない。書かなくても誰にも何も言われはしないだろう。だが、僕は書かなければならないのだ。書いて、伝え続けて行かなければならないのだ。そう自分に言い聞かせ、自分に役割を与える事で、僕はあのどん底の日々を乗り越えかけている。


 微睡の中で、昔の記憶が鮮明に脳内に映し出されていく。果たしてそれが夢か現か、酔いの中ではわからなかったが、今年に入ってから僕は度々、こんな風に昔の自分を思い返す事がある。


 この日浮かんだのは、小学校の図工室のイメージ。様々な絵やら彫刻やら機材やらで埋め尽くされた図工室は、窓の外に大きな木がある為陽当たりも悪く、陰鬱とした雰囲気に満ちている。そうだ、こんな事があったと思い出した。あれは確か、小学二年生の頃の話だ。

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