その3 灰色の思い出 2
小林直子は母親のいる前で、農業高校への受験を希望した彼を鼻で嗤い、そしてさも馬鹿にしきったように。
『農業高校でも、あそこは公立よ?貴方の成績で公立に合格すると思っているの?』
俊介は衝撃を受けた。
彼だって自分の成績が良くないことは承知していたが、それでもあんな物言いをされるとは思ってもいなかった。
さらに『貴方には高校受験は向いていない。就職したら?どうしても受験したいならば考えてあげるけど・・・・』
更に続けて彼女はこう言ったのである。
俊介は何もかも嫌になってしまった。彼はいっそのこと、本当に中卒で就職しようかと、真面目に考えていた。
彼が両親にそう打ち明けると、日頃は息子の行動についてあまり干渉をしない両親、特に母親の方が、
『高校だけは絶対に行かなくちゃダメだ!』と、やけに感情的になる。
(後で分かったことが、母親の兄・・・・つまり俊介にとっては伯父にあたる人が中卒だった。しかし彼はそのことが原因でなかなか職も見つからず、やっと入れた職場でも、高学歴の後輩にどんどん先を越されてしまい、結婚すらなかなかできなかったという)
彼は元々親思いの少年だったので、母が感情的になり、挙句はさめざめと泣くところを初めて見たのはショックだった。
そこで不承不承であったが、進学に切り替え、そのことを担任に話したところ、小林先生は、不満気な顔をしていたが、一応理解はしてくれた。
そして、受験シーズンが近くなり、1週間以内に願書を提出するというその日、
『今から願書を渡します』彼女は教室でそう言ったという。
願書?
彼は自分がまだどこの学校を受けるかも知らされていないのに、である。
他の生徒、特に成績のいいグループは、それでも特にざわつくことなく、当たり前のような顔をしていた。
クラスの生徒全員は順番に教壇の前に並ばされ、
『〇〇君、○○高校と○○高校、ヘイガン』
『○○さん、○○高校、タンガン』
自分の順番になった時、
『本田俊介君・・・・××大学付属高等学校、タンガン』と告げられた。
『ヘイガン』とは『併願』のことで、つまり出来のいい生徒には公立の外、私立の学校も両方受けさせて貰える。
しかし、彼の様なお世辞にも成績の良くない生徒には、俗に『安全パイ』と言われるさほど出来の良くない学校一本に絞ってしか受験が許可されないのだ。
だから『タンガン』、つまり『単願』と言う訳だ。
俊介が受験した、
『××大学付属高等学校』というのは、お世辞にもレヴェルが高いとは言えない。
いや、どちらかというと世間から『あんな高校』と呼ばれるようなところでしかなかった。
『屈辱でしたよ』
俊介は何杯目かのコーヒーを飲み干し、相変わらず半分唇を噛みしめて言った。
『僕が勉強をしなかったのは認めます。しかし願書を出すその日まで,自分がどこの学校を受けるか知らされもしないなんて・・・・結局合格はしましたよ。ただしボーダーラインすれすれでしたけどね』
中学にそのことを報告しに行ったら、
『そう、よかったわね。でも受かるとは思っていなかったわ』
素っ気なくそう言っただけだった。
その日以来、卒業するまで、俊介は一言も
『でも、高校はいい学校でしたよ』そこで彼はちょっとだけ表情が明るくなった。
『特に僕はそこで空手と出会ったんです』
そういや、彼は伝統流派の黒帯だったな。映画雑誌のインタビューでそんな記事を読んだことを思い出した。
彼は高校時代、空手部に入部した。
それまで運動なんかまったくやったことがなかったが、一瞬にしてその魅力に取りつかれ、それこそ毎日誰よりも早く道場に行き、先輩や同輩部員達よりも練習した。
先輩も顧問の先生も厳しくはあったが熱心に指導してくれ、彼もそれに応えようと努力をした。
すると、空手だけじゃない。
それまで苦手だった勉強にも力が入るようになって、成績は学年で常に五番以内に入れるようになった。
一年の終わりに初段になり、二年の最後には弐段になって、上級生が引退するに当たって主将に選ばれ、彼の率いる空手部は県大会で優勝。全国大会でも初のベスト4、個人戦では三位入賞という快挙も成し遂げた。
卒業する時には、上の学校である大学から推薦で入らないかと言う話があった。
しかし彼はそれを断って必死に勉強し、遂には『とても無理だろう』と言われていた東京のN大芸術学部を受験し、見事に合格したのである。
彼はそこで演劇コースを取り、成績も常にトップクラスだった。
そして、卒業後、彼はある決意をして、米国に渡った。
その後の人生は、皆さんご承知の通りである。
『つまり、貴方にとって中学時代は灰色の思い出しかないんでしょう?そしてその思い出を作ったのが小林先生って訳だ・・・・その人に一体今更何を?』
俺が訝し気に訊ねると彼は答えた。
『だからこそケリをつけなくちゃいけないんですよ。そのためにはもう一度逢わなくちゃいけない・・・・そう思ったんです』
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