量子の樹の下で

サイド

量子の樹の下で

「バレたら首じゃ済まないよな」


 俺はパソコンのキーボード脇に置かれたマグカップを手に取って呟いた。

 周囲では最新鋭のスパコンが何台も並び、低く唸っている。

 一定の温度に保たれた室内は過ごしやすく、その機械達を少し羨ましく思う。


「あー、またやってる。懲りない人ね」


 背後の扉が開いて、一人の白衣の女性が入って来た。

 背中の半ばまで伸びた髪の毛先を少し遊ばせ、太めの眉と人懐っこい眼差しで俺を見る。


「百合花(ゆりか)か。このスパコンは俺の管轄なんだが」


 赤坂(あかさか)百合花は両手を腰に当て、唇を尖らせ、俺を睨む。


「その管理を任されてるからって、設備を私用に使う昴(すばる)もどうかと思うんだけど」


 言いながら百合花は俺こと、杉山(すぎやま)昴の隣の椅子に座る。

 ふわり、としたフローラルな佇まいに、少しドギマギする。何と言うか、彼女の外見も、挙動も俺の好みにドストライクで、少しときめく。


「ん? 何?」


 俺の心の内も知らずに、百合花はきょとんとしている。

 ナチュラルなメイクに、唇の色を控えめに主張させるリップに軽く眩暈を覚えた。


「うーん。なのになあ」

「?」


 俺の呟きに百合花は首を傾げる。

 俺は俺で混乱しているのだ。

 これだけ好きになれる要素と記号が揃っているというのに、彼女に手を出す気持ちが余り湧いてこない。

 なぜか本能がそれを拒んでいる。

 それをしてしまったら、お前は終わりだぞ、と言っているかの様に。

 理由は分からない。何でだろう?


「で、研究は進んでる?」


 百合花の言葉で俺は現実に戻る。


「いい所まで来てるんだが。後一歩って所だな」


 ふうん? と百合花は顎に手を当てる。

 今、俺が触っている機械は、量子演算を目的としたスパコンだ。

 目的は並行世界への干渉と移動。

 ビッグデータやAIの開発に押されて陽の目を浴びる事が少なくなった研究だが、その可能性まで失った訳ではない。

 実際、俺と百合花の所属するシンクタンクではその分野の天才達がしのぎを削っている。

 俺はパソコンのディスプレイに目を戻す。

 その先では演算をこなすスパコンの英数字の羅列が並ぶ。

 百合花はディスプレイを覗こうとして、俺のマグカップに手を引っ掛ける。

 零れそうになったカップから百合花は飛び上がる位の勢いで後ろへ飛んだ。


「そんなに驚かなくても」


 百合花は不服そうな顔で左腕の時計を撫でる。


「知ってるでしょ。私にとってこの腕時計は何物にも代えがたい宝物なの」


 その時計は秒針、分針、時針に限らず、色々な何かを測るものらしく、複雑な計器を埋め込まれた逸品だ。

 一度、どこで作られたのか聞いたが、「言っても分からない場所で」と言う謎な解答が帰って来た。

 俺はディスプレイに視線を戻す。百合花も隣の椅子に座る。

 そして流れていた英数字が、ぴたり、と止まる。


「何なんだろうな、これ。いつも同じ個所で演算が止まる」


 百合花は、「うーん」と首を傾げる。


「私も考えてみたんだけど、これ、摩擦じゃない?」

「摩擦?」

「喩えだけどね。ほら、私達の命って、物質と意思が作る魂のエネルギーを糧に動いてるでしょ? 量子って言うのは粒子性と波動性を併せ持つものだから」

「物質を粒子性、意思を波動性に置き換えて考えれば、世界の根源である魂に迫る事が出来る、と。で、それを前提とした摩擦ってのは?」

「粒子性と波動性の擦り合いじゃない? そこから生まれる熱を係数として観測出来れば並行世界の座標が分かる」

「異世界への扉が開くって事か」


 こういう所が彼女はアドバイザーとしてとても優れている。他の研究員と協力し合えばいいのに、何故かそうしない。

 曰く、「貴方以外の人間とは波長が合わない。発想が湧かない」とのこと。これも理由が分からない。


「やってみるか」


 俺はキーボードを操作する。

 零と一の世界である演算を途中で中断させる数式を挿入し、連続性を断ち切り、曖昧な部分を作る。

 それによって並行世界への移動を可能とさせる様な、人体を量子化させる細胞の分散と結合の法則を弾き出させるのだ。成功の確率は極めて低いが。

 とは言え、見つかれば大目玉では済まない事をしている俺にも目的がある。

 告白するが、俺は並行世界への移動が可能となった世界が何処へ向かうのかを見たいのだ。

 他の研究者は、軍事と安全保障の為、技術革新と経済の発展の為、新エネルギーよる貧困の根絶などの目標があって、研究を進めているが俺にはそれがない。

 ただ、新しい世界を見たい。それだけだ。

 喩えるなら死んだ後にでも開発されるであろう最新のゲーム機を見たいと言う、子供じみた欲求に近い。

 百合花は困った様に微笑む。


「貴方のバカも極まってるわね。貴方の研究は量子の木の下の種なんでしょうね」

「何でだ? 完成したら、樹形図の頂点にいるんじゃないのか?」

「並行世界へ行けるって事は、無限の可能性を手にするって事で、そこから全てが始まる訳でしょ? だったら、貴方の立ち位置は頂点ではなく、底辺よ」

「なるほど」

「頭の作りまでは変わらないと思うけど」

「うるさい。何か納得しちゃいそうな理屈をゴネるのは止めろ」


 俺の突っ込みに百合花は、悪戯っぽく笑う。


「冗談よ。……でも、預言してあげる」


 急に真剣な口調になって、百合花は言う。


「貴方はこの研究の果てで必ず後悔する。必ずね」


 確信に満ちたその言葉に俺は不可解さではなく、恐怖を覚えた。それ程に彼女の口調は真に迫っていたのだ。

 そして、パソコンが答えを出す。


「マジか」


 俺は呆然とした。

 そこに表示されていたのはシンプルながら、複雑で無限の展開を持つ公式だった。

 意外にあっさりと、答えは出てしまった。

 言葉を失う俺を尻目に、百合花はゆっくりと立ち上がり、俺の後ろに立つ。

 そして、ごり、と俺の後頭部に何かを突き付けた。

 本能が危険だと警鐘を鳴らし、俺は震えを覚えた。


「……まさかと思うけど、拳銃か?」


 硬質な声で、百合花は答える。


「辿り着いたのね。止めておけばよかったのに」

「後悔ってのはこういう事か? お前は何処かの国の機関の諜報員か、産業スパイか?」

「大外れ。多分、貴方が思い浮かぶ限りの答えを尽くしても、辿り着かない人物よ」

「……?」


 含みを持った口調に俺は眉根を寄せる。だが、何の答えも思い浮かばない。


「まあ、分からないでしょうね。じゃあ答えを教えてあげる」


 すると背後で、ばさっ、と言う音がして、後頭部へ突き付けられていた銃口が離れて行く。


「いいわよ。こっちを向いて」


 俺は、ゆっくりと後ろを向いて、目を大きく見開いた。

 そこにあった顔は。


「お、俺の……顔? どういう、ことだ?」


 俺は混乱の極みにありながら、まじまじと百合花の顔を見る。その足元には長めのウィッグが落ちている。

 しかし、よく見ると似ているのは顔のパーツだけで、その並びや配置はきちんと女性としてのものである事に気が付く。ウィッグを取っても、髪は肩口まで伸びている。

 正真正銘、彼女は女だ。

 言うなれば、生き別れていた男女の一卵性双生児と突然出会ったかの様な気分だ。

 しかし、なぜ? どうしてこんな奴が存在するんだ?

 頭を抱える俺に百合花は言う。


「貴方は大きな勘違いをしている。どうして、杉山昴と言う人間が、並行世界でも男だと決め付けるの?」

「……あ……」


 言われて見れば、その可能性は存在する。さっき、彼女自身が言ったじゃないか。

 無限の可能性、と。その中に、俺が女の世界が存在していて何がおかしいと言うのか。

 俺は力なく笑う。


「はは、なるほど、じゃあ赤坂百合花ってのは偽名だな?」


 百合花は……いや、『昴』は拳銃を下げて頷く。


「ええ、自分の好きそうな名前をでっち上げた。ついでに好みの髪形と、特殊メイクを付け加えて、貴方の懐へ飛び込んだって訳」

「うええ」


 その言葉を聞いて、俺は激しい自己嫌悪を覚えた。

 つまり、俺は女とは言え、俺自身に、ちょっとときめいて、好意を持ってしまっていたのだ。


「か、勘弁してくれ。マジで吐き気がする」


 『昴』も写し鏡の様に頭を抱えた。


「お互い様よ。私を見る貴方の眼差しの居心地の悪さは異常だったんだから」


 二人で、「ふぅ……」と一息ついて、顔を上げる。


「で、お前はそこまでして何がしたいんだ?」

「うん。自分の居た世界へ帰りたい」

「……もしかして、興味のままに移動したはいいけど、帰れなくなったのか?」

「そ。私の作った演算機は入口を作っても出口は作れなかったの」

「それはヤバいんじゃないのか? どうやって帰るんだ?」

「今、貴方が開発した公式とスパコンを使って。幸い、世界の座標は分かるの」

「どうして?」


 俺の指摘に、『昴』は腕時計を撫でる。


「摩擦の話はしたでしょう? これはその係数を測るレーダーなの」

「それで追跡出来る、か。だから大事にしてたんだな」

「そういう事」


 答えながら『昴』はキーボードを操作する。スパコンが動き出す。


「演算開始。さて、私とはこれでバイバイね」


 『昴』の体が燐光に包まれ始め、苦笑して俺に拳銃を渡す。


「これが貴方の憧れの果てよ。そして、夢を追い終えても、現実は続く。演算のログを持つスパコンをどうするのかは自分で決めなさい」


 そう言って、『昴』は消えた。

 俺は拳銃を手に、考える。

 思ったより早く結論は出た。

 スパコンにデータ削除のプログラムを走らせ、その筐体へ拳銃を向ける

 軍に利用されるのを避ける為ではなく。

 産業スパイに利用されるのを避ける為でもなく。

『昴』の言う通り、俺は最後に迎えた結論に後悔したから。

 俺はただ、憧れの果てにあった、自分自身にときめいてしまうという最高の自己嫌悪を抱く最悪の可能性を回避する為に、引き金を引いた。

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量子の樹の下で サイド @saido

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