姫の失踪

 翌朝。いつもよりも早く、アキユキの部屋をノックする秘書の姿があった。「ボス、早朝に失礼致します」礼儀正しく、感情を抑制することに長けた彼にしては珍しく、語尾に興奮の色が滲んでいた。異変を感じ取り、アキユキは「入れ」と即座に許可を下した。その声には最早ひとかけらの眠気も残っていなかった。


 するり、と音も立てずに入ってきた秘書は、一礼して「ワタライちゃんが居なくなりました」と告げた。アキユキの眉がぴくり、と動く。「朝の鍛錬で遠出しているだけだろ」と冷静に返す彼だが、その手は既に着替えに伸ばされていた。「いえ。口止めされておりましたので、ボスはご存知ないかと思いますが・・・・・・ボスの朝食を作っているのはワタライちゃんです。彼女がこの仕事を他の者に譲ったことはありません。ですから、この時間に戻ってきていないのはおかしいのです」それと、と彼は続けた。

 「体調不良かも、と女性スタッフにワタライちゃんの部屋の確認をお願いしましたが、どうも慌てて・・・・・・しかも、窓から出て行ったような形跡がある、と。血の臭いなどはしないとの事ですが」「・・・・・・妙ではあるな」アキユキは、ふう、とため息をつく。続けて「シフトに支障は」と声を上げると、すかさず「問題ありません。ワタライちゃんは今日、明日と休暇の予定です」と返答があった。


 一通り朝の支度を済ませたアキユキは「ワタライは治癒魔術の天才だ。そう簡単にくたばりはせん。単なる奴の気まぐれということもあり得る。持って行った物を確認しろ。自分の意志で出かけたようなら夕方までは待つ。それまでに戻らなかった場合は、本格的な捜索も考えよう」と指示を出した。「そのように」と一礼して出て行った秘書を見送り、「人騒がせな奴め」とため息をついた。


 アキユキ達の病院は、朝の鐘から夕方の鐘まで。スタッフが増えてきたとはいえ、診察はもちろん患者のデータ管理に薬の手配と、走り回っているうちに時間が過ぎていった。目の回るような忙しさの中でも、「助かったよ」と笑いかけられると、アキユキの頬も緩んだ。しかし、今日のアキユキを注意深く観察した人は、彼の表情が些か強張っていることに気がついたかもしれない。その強張りは、窓から差す陽光が赤みを帯びるにつれて強まっていった。


 りん、ごーん、ごーん・・・・・・りん、ごーん、ごーん・・・・・・


 夕方の鐘が鳴らされても、ワタライが戻ることはなかった。書類を纏め終わったアキユキが振り返ると、病院のスタッフ達の不安げな顔が並んでいた。ワタライは、病院のアイドルだ。賑やかな人気者の彼女が居なくなったというニュースは、スタッフ達に大きな衝撃を与えたようだった。「ボス・・・・・・」と声を上げる女性スタッフに、アキユキは「分かっている。さすがに見つけ出してお説教してやらにゃならん」と、わざとおどけてみせた。ふっ、と皆から笑いが洩れる。それに合わせて一緒に笑いながら「この後の会合で情報屋ハロディに聞いてみるさ」と続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る