Scene 10. 二人と、約束。
ヴァースは黙って瓶を傾けていた。ミィヤも炭酸水を啜っている。最早去るタイミングを失った見知らぬ男も、少し不機嫌そうに静かにジョッキを煽る。
沈黙が気まずいミィヤは、ビーについて外に行かなかった事を少し後悔した。ヴァースのジェットに興味が無かった訳ではなかった。しかし当の本人が隣にいるのだから、離れるのは勿体無い気がしてしまったのだ。しかし残ったは良いものの、何を話せばいいのか分からない。リディもロブソンも、何であんなにポンポンこの人の前で言葉が出てくるんだろう。
「食わないのか?」
と声がして、ミィヤの前に腕が伸びてきて、ボウルに半分ほど残っているバターシュリンプを一つ、摘んで行った。目で追うと、ヴァースと目が合った。
「貰うぞ。」
と言って、ヴァースは冷たくなってしまっているであろうバターシュリンプを口に放り込んだ。
「ど、どうぞ……」
ミィヤは小さく呟いてまた下を向き、両手でボウルを少しヴァースの方に寄せた。
「……スターリンに言ったな?」
目を合わせないでヴァースが言う。う、と息が詰まって、ミィヤは動けなくなった。そう、もちろんヴァースは、リディの口振りから、ミィヤがデートの件を彼女に伝えた事に勘づいていた。少し待って、ヴァースは続ける。
「……ブリッジスにも言ったのか?」
本当にこの人、私の心が読めてるんじゃないのか?この人には何も隠せないんじゃないのか?
ミィヤはそう考えながらも、本人がこの事をちゃんと覚えていて、ミィヤの夢などでは無かったと言うことに正直、驚きと安心を感じていた。と、同時に、泣きそうにもなっていた。
どうしよう、そりゃ言うなとは言われていなかったけど、2人に言ってしまった事を怒られるんだろうか。やっぱり止めようとか言われちゃうんだろうか。
と、言い訳等色々考えが浮かんだが、素直に謝ることにした。俯いたまま、小さく呟く。声を出すだけでも、どんなに勇気のいることか。
「すみませんでした……。」
ギシ、と音がして、下ろした髪で狭まった視界の端が動いた。顔を上げると、まるで身体を小さく見せるかのようにテーブルに屈んで、ミィヤの顔を覗き込んできたヴァースがいた。目が合う。優しそうに、細められた目。ヴァースは口元に人差し指を当てて、ささやき声で行った。
「あんまり言いふらすなよ?」
ミィヤは息も出来ずに、ただコクコクと頷いた。ヴァースは微笑んでそれを見届けてから、視線を外して身を引く。座り直したヴァースは、チラチラこちらを伺っていた、テーブルの反対側の男に向かって瓶を掲げた。
「いい夜だな。」
男も軽くジョッキを上げて答える。しかし相変わらず機嫌は悪そうだった。
窓の外でキィーンと、エンジンが唸る音がして、おおおおっ、とビー達のどよめきが聞こえてきた。ビーがジェットのエンジンを入れたのだろう。
「ずっと寮にいるのか?」
「え?」
「着任式までは一週間あるだろう?」
ヴァースは、まだミィヤとは視線を合わせずに聞いてきた。
訓練を終えた空士候補生達は、正式な着任先の通達の後、そこに住居を移すことになる。そしてそれぞれの配属先で、新しい空士達を受け入れる式典が行われるのだ。母艦では一週間後だった。
母艦勤務が始まれば、地上にはそう簡単に来ることは出来なくなる。加えて、夢である母艦勤務が現実となった事を、ミィヤは家族に直接会って伝えたかった。
「一度実家に帰ろうと……」
思ってましたが、え、どうしよう。え、そう言えば郊外に出ちゃったら遠い?デートしてもらえない?
と、考え出してしまって、ミィヤは言葉が尻すぼみになってしまった。そして、デート出来なくなるなら実家帰るのやめようか、とすら考え始めてしまった自分が恥ずかしくなってくるのだった。
「……その、職権乱用になりそうなんだがな。」
少し考えるような間の後に、ヴァースが言った。何のことか分からずミィヤが見ると、ヴァースはまた視線は合わせずに、指の先で鼻の頭をかきながら言った。
「前に一度訓練員の名簿で見たから住所は覚えてる。」
「え。」
ヴァースは居心地悪そうに座りなおすと、組んだ腕をテーブルについて、また身を乗り出すようにミィヤを見て聞いた。
「3日後はどうだ?」
覚えてる?私の住所を?その驚きで、ミィヤは次の質問に頭が追いつかなかった。3日後?
「時間は取れそうか?」
……あ、デートの日!!
「はい!」
その元気な返答に満足して、ヴァースはまた微笑んだ。
「そうか、良かった。」
ヴァースは、恐らくもう空であろう瓶の最後の一滴を飲み干すように煽ってから、ゆっくりと立ち上がった。つられて立ち上がるミィヤの方を見る。
「昼過ぎ、一時くらいでどうだ?」
「はい、大丈夫です。」
「わかった、迎えに行く。」
「はい。あの、」
「うん?」
ミィヤはしっかりとヴァースの目を見る。思えばまともに話せていない。最後くらい照れずに挨拶したい。嬉しいという気持ちを伝えたい。
「楽しみです、凄く。」
上手く笑えていたかは分からないが、ミィヤは出来うる限りの満面の笑みで、ヴァースに言った。
ヴァースは少し驚いたように目を見開いてから、また表情を緩めて言う。
「ああ、俺もだ。」
右手で軽く、ミィヤの左腕に触れる。暖かい熱が、お互いに伝わる。
「また3日後に。」
「はい。」
「……じゃあな。」
名残惜しそうに残された手がやがて離れ、ヴァースはジャケットを片手に店の外に向かっていったが、途中で立ち止まって呟いた。
「ああ、そうだ。」
振り向いてミィヤに言う。
「動きやすい格好でな?」
それだけ言うと、ヴァースはまた歩き出した。すれ違いざまに、向かいに座っていた男の肩を叩いて言う。
「良い夜を。」
男は相変わらず機嫌悪そうに、また少しだけグラスを掲げた。
「さぁお前ら、残念だが時間だぞ。」
「もうお帰りですか、先輩?」
「ええーっ、もう帰っちゃうんですかぁーー?」
「俺は明日も仕事だよ。お前らの引率も楽じゃ無いんだからな。」
ドアの外から、ロブソン達と言葉を交わすヴァースの声が聞こえてくる。窓の外に、鍵をビーに返されたヴァースがヘルメットをつけてジェットに跨ったのが見えた。そのまま何かビーと話している。ジェットの事について教えているに違いない。
しばらくしてジェットのエンジン音が聞こえ、銀色の流線型はヴァースを乗せて滑るように去っていった。ロブソンとビーが敬礼で見送っている。
そこまでをテーブルの横で見届けたミィヤは、やがてヘナヘナと椅子に崩れ落ちた。そのまま炭酸水とバターシュリンプのボウルを押しのけて、テーブルに突っぷす。
(そうか、良かった。)
(迎えに行く。)
(ああ、俺もだ。)
(また3日後に。)
ついさっき交わされたはずの言葉を、頭の中で繰り返す。
(楽しみです、凄く。)
(ああ、俺もだ。)
あなたも?ほんと?本当に??
どうしよう、私。自惚れても良いんだろうか。あの人も同じ気持ちだって。私と一緒に居たいって思ってるって、思ってしまって良いんだろうか。
身体がポカポカ暖かい。力が入らない。
動かないミィヤの横に、ビーが帰ってきてドサリと腰を下ろした。片手には並々と注がれた新しいジョッキを手にしている。
「いやー、いい奴だなぁーヴァース先輩。」
ホクホク顔で、ビールを煽る。ふと、ミィヤが微動だにしない事に気づいて、ビーはテーブルに頬をペッタリとつけて突っ伏しているミィヤの顔を伺った。納得して、ニヤリと微笑む。
「……たぁーのしみだねぇー、ミィヤ。」
からかうようなビーの言葉に、ミィヤは惚けたまま、今度は素直に頷いた。
「うん……」
ああ、どうしよう、わたし。
幸せ。
「っつーかさ、今思い出したんだけど。」
ビーは思いついたように言って、もう一口ビールを煽る。そしてためらいもなく言葉を続けた。
「結婚してなかったっけ?前艦長って。」
ミィヤは全身の血が止まったような気がした。身体中の熱がひゅっと消えてしまったような。寒い。
ああ、
どうしよう、わたし。
今夜こそ、ゆっくり眠れると思ったのに。
◆◆◆
ヴァースは郊外の自宅に辿り着くと、ガレージを開けてジェットを停めた。ヘルメットを外し、降りたジェットの横の壁に取り付けられている棚にそれを収める。背後でガレージのシャッターが自動で閉まって行く。ジャケットを脱いで壁のフックに掛けると、やはり自動で袖にバーが通され、除菌剤の霧が内側に満たされる。
ヴァースはガレージのドアを潜り、センサー式の明かりのついた倉庫とパントリーの横を通り過ぎ、階段へ向かった。歩きながら、先ほどの教え子達との会合を思い出す。楽しい夜だった。
(楽しみです、凄く。)
ミィヤの笑顔が浮かんだ。自分でも気づかないうちにヴァースも笑顔になっていた。階段を上がって、自室に向かう。ヴァースの後を追うように明かりが灯り、消えていったが、階段を上がり終わると、既に廊下には明かりがついていた。
「あら?」
と声がして、ヴァースは正面を見た。
一糸纏わぬ、生まれたままの姿で、髪の長い女性が立っている。
「おかえりなさぁい。」
と、言いながら大きなあくびを一つして向かってきた。
「……ローレン、何度も言うが、」
ヴァースはため息をついてから、頭を抱えて目の前の裸の女性に言った。
「服を着て寝てくれないか、頼むから。」
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