夜明け

 連なった山々が黒々とした影を落とし、ぐるりと囲むようにそびえている。


 まだ日は昇っていない。月は、眠りかけている夜に、優しく地面に降ろしてもらおうとした。夜は寝ぼけ眼をこすりながら、月をゆっくり下ろし始めた。


 月は気づく。この異様な静けさに。


 一切の音がしない。風が吹く音も、梢がざわつく音も、湖面が立てる波の音も、虫の羽音も、動物の足音も、鳥の鳴き声も、何一つとして空気を振動させていない。


 そして月を、彼女を強烈な匂いが襲った。


 鉄くさい。まがまがしく、殺気に満ちた鉄の嫌な匂い。焦げ臭い。何かが焦げた匂い。鼻の奥にツンとくる、えた炭の様な匂い。何よりも血。血の匂い。生臭い血の匂い。吐き気がこみあげてくるほど強烈で、濃縮され、立ち込めている。


 ――ピチャッ


 彼女が降り立ったところは、血だまり。夜はすさまじい勢いでその手を引っ込めた。真っ白な彼女は目の前の惨劇に対峙し、血だまりの中をふらふらと歩きだした。


 ――ピチャッ…ピチャッ…


 死が谷を覆っていた。空気でさえ息をすることが出来ないほどに。淀み、穢れ、まがまがしく腐りきった空気が谷の中を埋め尽くし押しつぶしていた。剣が、槍が、矢が、いくつもいくつも、そこかしこに突き刺さっている。


 そこいら中に死体が転がり、いくつもの山を形成していた。。

 彼女はすぐそばに落ちていた肉塊を抱き上げる。胴体にのめりこんだ頭の形から、それが猫だったものということがかろうじてわかった。

 鳥の、熊の、鹿の、兎の、鼠の、犬の死骸が力なく横たわっているのがあちらこちらに見える。

 あるものは腹を裂かれ臓物があらわになっていた。あるものは四肢をちぎられていた。あるものは中途半端に、もてあそばれたかの様に皮を剥ぎ取られていた。あるものは鉄の槍に口から尻までを貫かれていたあるものは目がくりぬかれてあるものは首から上があるものはあるものはあるものはあるものはあるものはあるものはあるものはあるものはあるあるあるあるあるあるあるあるあるあるあるあるあるあるあるあるあるあるあるあるそしてみな、一様にただならぬ量の血を流していた。


 目に見える全ての景色は血に染まっていた。野原は飛沫により点々と赤く染まり、土は大量の血が染み込んで紅く染まり、霧散した血が溶けこんだ空気もうっすらと朱く染まっている。

 流れ出した血は傾斜に沿ってどんどん流れゆく。最初はか細い筋だった流れは、次から次へ、ほかの血の流れと合流し結託し混ざり合い、太く大きな流れとなって湖に流れ込んでいた。湖はその清らかで芳醇な水のすべてを吐き出し、汚く淀んでドロドロと生臭い血液を受け入れいっぱいに溜めこんでいる。


 緑などなかった。

 木々は、草は、茂みは、野は、すべて燃やし尽くされていた。あとには焦げた有機物と、炭化した残骸が山のように残るのみである。


…ピチャン……ピチョン……ビチャッ。


とうとう彼女は立ち止まり、だらりと腕を垂らす。

彼女は廃材の塊と化した自らの棲み処を見下ろしていた。


 破かれた本。割れた食器。崩れた暖炉。壊れたランタン。血と泥にまみれた綿毛。引き裂かれた服。砕かれた器具。


 ――コトコト…


 か細く小さな音。見やると、真ん中から大きく割れ、ほとんど中身の残っていない瓶が目に留まった。彼女はサッと駆け寄る。なじみの蒼い薄紫色の煙が、力なくゆぅらゆぅらと陰鬱そうに立ち上り、あの少年の姿になる。少年は濃いクマのできた目からあのキラキラを垂れ流し、息苦しそうな顔で彼女の姿を認めると、うなだれるようにして頭を差し出した。彼女が少年にキスを――することは叶わなかった。

彼女の唇が少年に触れる前に…少年はただの煙となり…霞になり……


……スゥっと霧散していった。



 ――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――


 それは渓谷全体に、大きくつんざくような咆哮として、悲しく哀しく響き渡った。それが自分の叫びだと気付くのに彼女はかなりの時間を要した。彼女は透き通った大粒の涙を流し、泣いた。虚空を見つめ、血の海の中、真っ白な彼女は泣き続けた。声が枯れるまで泣き続けた。いくら泣いても彼女の涙ではなにも救えず浄化できず、流れた涙はただただ血の海に取り込まれていくにすぎなかった。



 どれくらい経っただろうか。夜が心配そうに彼女を見下ろしている。

 ふと彼女がしゃがみこむ。――と、見る間に彼女は足先から赤く染まり始めた。彼女は血を吸い上げていた。護れなかった、救えなかった者たちの、そして彼女自身の悲願を果たすために。どこまでもどこまでも。ぐんぐん血を吸った。あの滑らかな赤毛が十分すぎるほど紅に染まり、つやつやを通り越してぎらぎらと輝き始めても、吸うことをやめなかった。とうとう地面から血だまりが消え、湖は干上がった。景色という景色から血がなくなったとき、彼女はそれをやめた。


 彼女のすべてが真っ赤に染まっていた。全身が、どこも残さず、つま先から髪の毛の先端まで、余すところなく、鮮血を思わせる色に染まっていた。彼女は真っ赤な瞳を爛々とさせ、朱く染まった歯をニカッと見せながら、空に向かって手を広げた。


 夜は恐る恐る手を伸ばし、おっかなびっくり彼女を拾い上げる。

 彼女は自分を強く強く抱きしめ膝を抱えて月となった。


 その日、紅い月ブラッドムーンが昇った。

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