第11話



 彼がいなくなった数分後に医者が、さらに数十分後には母が病室にやってきた。

 医者は、「街を歩いていた僕が雨でスリップした車と接触して病院に運ばれた」ことを教えてくれた。幸い怪我は軽く、命に別状はないらしい。あとからやってきた母にもそう伝えると、不安に強張っていた顔が、見るからに安心した表情になった。

「あなたが無事で本当によかったわ」

 母はベッドの脇の丸椅子に腰掛けながら笑った。髪は少し崩れて濡れて、病室の照明をキラキラと反射している。

「遠いところからわざわざ来させて、ごめん」

「何を言ってるの? 子供が病院に運ばれたっていうのに駆けつけない親なんていないわよ。父さんもすぐ来るからね」

「あのさ、母さん」

「どうしたの? どこか痛む?」

「倉科藍那のことを覚えてる?」

 藍那の名前を出した途端、母の顔が曇った。僕の手を握り、神妙な声で言う。

「いい加減にしなさい。何度も言ったでしょ? あの子が雨の日に増水した川に飛び降りたことは、あなたには関係ないって。あれはあの子の精神が特別異常だっただけなのよ。倉科さんの家庭はもともと少し変わってるって噂があったし。だから、早く忘れなさい。同じ雨の日にこんな事故にあって、ふと思い出してしまっただけなのかもしれないけど、あんな変な子のことをいつまでも気にして、あなたが自分の素晴らしい将来をぶち壊しにする必要なんてどこにもないの。わかったわね?」

 僕は何も言わずに、母の言葉に頷いた。外で風がごうごうと吹きつけるのが聞こえた。雨が揺れるカーテンのように波打ち、どこかで水位上昇を警告する甲高いサイレンが鳴っているのが耳に届く。僕にはそれが、なぜかひどく懐かしかった。

 母はハンドバッグを片手に、きびきびと椅子から立ち上がった。

「じゃあお母さん、親戚とかパート先の人に連絡をしてくるわね。すぐ戻ってくるから」

「わかった」

 僕はその時、はっきりと見た。

 病室を出て行こうとドアを開けた母が、わずかに開いた隙間から入ってきた、透明でふわふわした小さな何かにつまずくのを。


「え」

 

 思わず驚きの声が漏れた。

 それは口に咥えていたボロボロのビニール傘を床に置くと、「わん!」と元気よく吠えたきり、もう完全に見えなくなった。そして僕はそれを、あれ以来一度も見ていない。


 でもビニール傘だけは、あれから数年が経った今でも、僕のアパートの傘立てに入っている。


 骨はバキバキに折れ、傘布も大きく破れているので、もう使うことはできそうにないのだが、どうしても捨てることはできなかった。持っていることで何かから守られるような気がしたし、それに、捨てたらバチが当たるような気もした。とにかく僕は、それをいまだに持っている。けれど前より辛くはない。彼女には彼女の物語があって、それはきっとまだ続いている。もしかしたら、またこちらに顔を出すかもしれない。僕はつまらない大学に通ってつまらない人生を送りながら、勝手にその時を待っている。

 そして玄関にその傘がある限り、きっと僕は永久に忘れないだろう。梅雨の時期に出会った、不思議な彼と彼の透明の愛犬のことを。



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梅雨、彼は透明の愛犬を連れ 名取 @sweepblack3

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