第10話
目を開けると、白い天井が目に入った。
「ここ、は……」
腕に違和感を感じ、見てみると、点滴の針が刺さっている。どうやらここは、病院のベッドの上らしい。
「どうして……」
途方に暮れて、窓の外を見た。相変わらずの雨降りだった。それでもさっきまでいたような、霧雨に覆われて他は何も見えないような寒々しい空間と違い、今見える雨空には雨雲の合間から覗く鈍い日光や、小さい鳥の影、そして何より人が生活している音や気配が満ちている。同じ雨でも、なぜだか落ち着く。
「目が覚めたみたいだね」
声がして、首だけで振り向くと、例の彼が立っていた。足元にはあの透明の犬の姿は見えない。彼は口元に淡い微笑みを称えて言う。
「ま、無事でいてもらわなきゃ、こっちが困るんだけどさ」
「あの、僕ら、どうなったんです……?」
尋ねると、彼は頬を掻いた。
「勝ったよ」
「勝った?」
僕は続けて質問した。少し声が震えた。
「じゃあ……藍那は? さっき言ってたような、『地獄』ってところに落ちてしまったんですか?」
「いや、それは、ほら」
彼は人差し指を立て、くるくると回した。
「一言で言うのも難しいんだけど、僕らの世界の制度も、年々変わってきててね。現世の色んな変化に合わせて、こっちも不可抗力的に変わるわけだ。だからつまり、あの女の子は……『再審査』に回された」
「再審査?」
「そう。前は自殺は問答無用で地獄って決まってたんだけどね。でも最近その規則も変わって、審査によって条件を満たせば必ずしも地獄行きとはならない、ってことになったわけ。入国審査の要領だ。ま、あの子の場合、君に取り憑くことで天国にも地獄にも行かずこの世をずっと彷徨ってたわけだから、ある意味ラッキーだったかもね。地獄に入ってしまってたら、そのあとで制度が変わっても再審査はされなかったろうから」
「どうしてです?」
「そりゃ決まってるだろ。地獄では魂は全部まぜこぜにされるからさ。液体みたいにドロドロになって、誰が誰だかわからなくなって、他人の一部が自分に入り込んで、自分の一部が他人にめり込む。そうして皆、自分が元々どんなだったかさえ忘れてしまう」
「まさか」
「本当だよ」
僕は仕事のことで嘘はつかない、と真剣な目で彼は言う。
「僕の犬を殺したのは、君に取り憑いていた藍那ちゃんだったのさ。地獄を脱け出してきた他の奴らに、多少力をもらってはいたみたいだけどね。まあとにかく、僕は僕の犬の仇が打てたから満足だし、もう君とも会うことはないだろう。迷惑をかけてすまなかったね」
「でも、」
さっさと立ち去ろうとする彼に、僕は慌てて言った。
「でも、僕は彼女に……結局何も償いができなかったのに」
「償えなかったのに、彼女のことを忘れて楽になっていいのか、幸せになっていいのか、君はそう言いたいのかい?」
彼はベッドのそばに戻ってくると、僕にぐっと顔を寄せた。
「それは君が決めることだ。どんな道を選んだにせよ、最終的に君の決断が正しかったかどうかは、君が死んで全てが終わってから僕たちが判断を下す。その時が来るまで、せいぜい悩め」
てか、
彼はそう言って、ふっと顔を離した。
何を言ってもこちらの言い分に聞く耳を持たないところは、あくまで変わらないらしい。そう思って僕は、諦めて窓の外を眺めた。雨脚は弱まらない。梅雨明けはまだ遠いようだ。
「ま、あの最後の言葉は、よかったと思うよ」
最後にそんな声が聞こえて、病室のドアが閉まる軽い音がした。
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