第9話



 あの犬を連れた彼は、僕のことを「心の奥底で罪悪感を感じている」と言っていたが、それは少しだけ違った。心の奥底なんてものではなかった。それは空気が張り裂けんばかりに詰まった浮き輪のように、意識の底へ沈めようとどれだけ足掻いても、水面に上がってくる。生き物のように勢いよく、生々しい鮮度を保ったままで。

 だから僕は、鉛の人形になった。

 忘れたい過去を、水底まで沈めてしまうための、ただの重し。何の感情も、喜怒哀楽も、感じることもない。


 それなのに。


『ねえ、私はね。貴方が開き直って悪人として生きたり、誰かから許しを得て新しい人生を始めたり、そんなのは絶対に許さないから。綺麗事言っても、そんなの結局、ただの逃げだよ。簡単な方へ、楽な方へ流れてるだけ。雨水みたいに、ね』


 足元の水面に雫が落ちて、弾けるような音がした。


 それなのにどうして僕の目からは、まだ涙なんかが出るのだろう。



「そろそろ時間切れだよ」



 声がして振り向けば、あの彼が、またタバコをくわえて立っていた。

「人生、そういつまでも過去の思い出に浸ってはいられないもんだ」

「でも……」

 言い淀む僕に構わず、彼は手にしたビニール傘を軽く振り、くるくると紐で細く縛る。

「まさかとは思うけどさ。君はこの彼女、本物だとか思ってるわけ?」

「えっ?」

「そんなはずがないだろ。自殺したような人間が、こんな綺麗な体を持って現世に現れる事なんて、できないよ」

「どうしてそんなことわかるんですか?」

「なぜかというとね、それは僕が死人の行き先を決める係員で、死人には体なんて与えられないってことを知ってるからさ。死んだらそこには、ただ透明な魂が遺されるだけ。視認できるお化けや悪霊なんてのは、そんな容れ物をなくした魂が、怨念とかでやっとこさこしらえた、魔法のハリボテ人形に過ぎないわけだ」

 彼は束ねた傘を、野球のバットのように構え、軽く二、三回素振りした。

「そして魂だけになった奴には、君みたいな生きてる奴の記憶が透けて見える。そしてそいつを自分達の世界に引き込んで、操る。知り合いに化けて感情を揺さぶってみせるなんて、奴らにはお茶の子さいさいなんだよ」

「……きっとそれも、口からでまかせなんでしょう?」

「ああ。もちろんそうだとも」

 藍那は僕らの会話を黙って聞いていたが、やがて、冷たくせせら笑った。

『随分楽しそうなおしゃべりね。でもわかっているの? ここで邪魔者なのはあなたの方なのよ、咥えタバコのお兄さん。これは私と彼の問題。部外者にどうこう言われる筋合いはないんだけど』

「部外者? よくもまあぬけぬけと。僕の犬を殺したくせに」

『貴方の犬なんて殺してないわ』

 藍那はそう言ったが、その顔は不敵に笑っていた。彼女が嘘をついているときの顔だった。

「君とこの大学生の男の子がどんな関係で、どんな悲しいことがあったにせよ、僕の知ったこっちゃない。僕は僕の犬のために、君を地獄に送り返すだけだ」

『できるのかしら? あなたにそんなことが』

 降り止まぬ雨の中で、彼女は笑みを深めた。その背後で、何台もの車が宙に浮かび上がる。ヘッドライトは皆こちらを向き、今にも襲いかからんばかりに爛々と光っている。

 彼はタバコを捨て、傘を構えると、濡れた頬を片手で拭った。

「そのアグレッシブさ、死ぬ前に発揮したら良かったんじゃないかと思うよ。君はきっと大成したろう」

『無理よ。私は死ぬ運命だった。こんな世界じゃ、私は、咲くことのできない花みたいなものだった。栄養もなく、光もなく。私に与えられたのはただ一つ。この身が潰れるほどの雨飛沫だけ』

 ひやりとした冷気が漂ってくる。

 ふと足元を見ると、あの透明のヨークシャーテリアがいた。こちらをじっと見つめ、何か言いたげに首をかしげている。その時、頭の中に声が流れ込んできた。

「ボクの飼い主は、君の友達を倒すよ」

「えっ?」

 声は構わず続けた。

「そういう人なんだ。普段はあんなだけど、仕事ではいつも優秀だ。彼に見つけられた以上、藍那ちゃんはきっともうこの先、こんな風に君の前には現れることは二度とできないだろう。だから、彼女に言っておかなければいけないことがあるのなら、今言ったほうがいい」

 けたたましいクラクションの音が鳴り響いた。

 僕は顔を上げ、こちらへ突っ込んでくる車の群れの中心にいる彼女を見た。

 あの頃と一つも変わらない瞳が、こちらを悲しげに見据えている。


 視界が完璧な白に染まる間際、僕は叫んだ。


「僕は、ずっと君を−−−−」




 

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