第12話
私は猫である。暖かくなってきた駅に暮らす住人である。
最近は日がどんどんと長くなっていき、日向ぼっこする時間が増えてきたのだ。
アスファルトの上、暖かい陽だまりの中で、程よく微睡んでいるとヨダレが口から垂れる。私は起きて気がつくたびにヨダレのついた前脚をペロペロと舌で舐める。
こうしてヨダレを垂らした証拠を隠滅するのだ。
おっさんくさいと、私自身で思ってしまうが、年相応だと考えると安心してヨダレを垂らしていられる。垂らさないのが一番なのだがね。
駅の近くでうたた寝をしていたので、駅の中から稀に聴こえるピアノの音に心を踊らせながら、春の訪れに、どうしても期待感を持ってしまう。
お昼過ぎの空に見える欠けた月は、そんな期待感に寂しさを覚えて、考えさせられてしまう。
幸せだ。幸せなのだ。こんなにも外が暖かいなんて、幸せなのだ。
小さな喜びを感じ取っては、心寂しさを埋めるように、また小さな喜びを探す。
今日はピアノの音も、よく聴こえる。幸せだ。幸せなのだ。
駅で私を待つのも、ついにはピアノだけになってしまったのだ。私を待っていた猫缶は、どこに行ったのだろうか。
それでも、私を待っているモノがいるのは幸せなのだ。
私もいつかは独りでどこかに行こう。
いつになるのか、まだわからない。
私は青い空に浮かぶ白い月に、幸せとは痛みを伴って、初めて気がつくものだ、と呟く。
そして、幸せとは近づいては離れて、離れては近く。まるで、さざなみのように、風が吹かなければやって来ない。
風は吹かなければ、吹くまで待つのか、吹かせてみせるのか、それとも要らないとしてしまうのか、人それぞれの考え方がある。
欠けた白い月を見上げて、独りで哲学をするのであった。これは答えではない。きっと、答えなんて、この世には存在しない。
くだらない一人遊びに飽きてしまい、私はすくっと立ち上がると、のそのそと駅舎の中へと戻っていった。
機械音が鳴る扉をくぐり抜ければ、いつものピアノとそれを囲うようにコの字で設置された木の長イス。
「ほほう。待っていたよ、猫くん」
……それとテンションの壊れた女の子。彼女は成人であるだろう。なんで、そんなにテンションが高いのだろうか。
「久しぶりだね、猫くん。君は今まで何をしていたのかね」
特に何もしていないのだ。いつも通りお昼寝をし過ぎていたのだ。
私は彼女の方に向いて座ると彼女のキラキラと光る瞳を見つめた。
彼女はしゃがみこむと私に手を伸ばす。
頭を撫でる気なのか!?
私は自然と尻尾を左右に揺らしており、喜んではないと思いつつも、身体は正直に撫でられる準備をしていた。
ぷにっ。
「……相変わらずのお腹周りだな」
しかし、手が伸びたのは頭ではなく、お腹であった。尻尾はコンクリートの地面にへたっと落ちる。
猫と女の子のお腹は摘んではいけないのだ。
世界の常識なのである。1日1ページ読めば身につく教養本に366日目を追加したいのだ。
「みゃ……」
私の沈んだ様子に彼女は鼻から息を吐き出した。
笑うんじゃないのだ。
私はキツく睨むように彼女を見るが、猫の表情なんて人間には大差がなくて、気がつかれない。
「さてさて、猫くんの機嫌が悪くなる前にピアノの続きでも弾こうかな」
既に機嫌は悪いのである。
しかし、先程まで聴こえていたピアノがお主ならば聴いてやらんでもない。
彼女はピアノのイスに腰掛ける。私はイスの余りに飛び乗って座り込む。
ここは私の特等席である。
そういうかのように彼女を見ると、彼女は楽しそうに、ふふ、と笑った。
「ふたりだけで演奏会だね」
楽しそうに笑った彼女はピアノに手を乗せると、柔らかく鍵盤に指を沈み込ませた。
いつから、そんなにも柔らかい音を出せるようになっていたのだろうか。
ピアノから出てきた音符が、待合室の壁、地面、イスに沈むように跳ねる。まるで、生き物が跳ねているみたいだ。
ひとりではない、ふたりだからの音なのだろう。
心地の良い音に幸せを感じる。小さな喜びをまた一つ見つける。それは音になってピアノから飛び出す。
やがて、音が止む。私の頭に掌が置かれると、優しく撫でる。
「私ね、この町出るよ」
彼女は優しい表情をして、私を見つめた。
そうであるか。旅立ちとは寂しいけれど、喜ばしいことなのだ。
繋いでいた手は、いつかは離れていく。かけがえのない毎日にも終わりは存在する。
私は彼女に笑顔向けて送り出したい。私は今できる笑顔を見せる。
「……私、福岡の方に行く」
私の笑顔に彼女は気がつかなかったのだろうか。
いつもの掛け合いがやって来ない。
彼女らしくない。私も私らしくない。
そう考えた時に私は今、きちんと笑えているのか不安に思った。
私の不安をよそに、彼女の真っ直ぐな視線は私に向き続ける。
「私、結婚するよ」
私が彼女から一方的に言われた言葉に目を丸くした。もともと、丸かった目をさらに丸くしたのだ。
それはなんとも嬉しかった。
「なに、その表情。変なの」
彼女は鼻から息を吹き出して笑うと私を撫でる手を退かした。
離れた手が別の人の手に握られてしまうのは寂しいのだが、彼女が彼女なりの幸せを手に握ったのなら、私は心から嬉しいのだ。
そして、彼女の穏やかな表情が私に緊張感を持たせる。
どうやら、まだ話は続いているようだ。
「猫くん、すごく重要な話だよ」
ゆったりと自分も落ち着かせるように言葉を選んで彼女は話をする。
「私は福岡に行くんだけど、猫くんが良ければ……」
「にゃー」
私はその言葉の先に察しがついた。彼女は私の鳴き声に面を食らったのか、言葉を飲み込んだ。
その先の言葉は聞いてはいけない気がした。
聞いてしまえば、後戻りが出来なくなるような、そんな焦燥感に襲われたのだ。
言葉を飲み込んだ彼女は、寂しそうなモノを見るように表情を柔らかくした。
その表情の意味が私には、わからなくて、考えることも面倒で、そのままにした。
「……たまには顔を出しに来るから、またピアノを聴かせてあげるね」
彼女の穏やかな笑顔はとても寂しそうであった。
水を揺らす風が吹かない時、吹かせるためにどうするべきなのかは、よく考える。
でも、突然の風に対して人はどのように行動を取るのだろうか。
風になびかれて喜ぶ人がいるだろう。風に驚く人がいるだろう。
そして、風が吹いても目に入らぬように瞑ってしまう人がいるだろう。
私は突然の風に驚いて、ピアノのイスに座る彼女を残して、のそのそと駅舎の外に出た。
途中、機械的な音を聞いたのかも忘れてしまうほどに疲弊していたからだ。
駅舎を出て、空を見上げた。浮かぶ欠けた白い月に答えを求めたが、教えてくれなかった。
私の出した答えは正解なのだろうか、答え合わせをして欲しいのだ。
ここはピアノのある駅。私はここの住人。
小さな喜びがたくさんある駅舎の中から出て、欠けた白い月と哲学をしたのであった。
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