第9話 記憶の邂逅②
私は父であった。まぎれもない、彼女たちの父であった。
今でも忘れない。毎日ピアノを弾く少女の事を。
私は父親のためにピアノを弾く少女に涙が出そうだった。
嬉しくって悲しくって苦しかった。
ピアノを弾くために駅に毎日来るからハルコさんも毎日叱っていた。
何度も、お父さんは帰ってこない、とナツキを叱った。何度もナツキは泣いていた。
私は何度も胸を締め付けられた。父親が帰って来ると信じる彼女の気持ちを想うとやるせなかった。こんなに苦しい毎日はまるで地獄であった。
彼女を抱きしめて、ただいま、と一言だけでも伝えたかった。
なんでそれができないのか、ひたすら歯を食いしばっていた。泣いている彼女にいくら鳴き叫ぼうが、彼女には何一つ伝わらない。
猫はしゃべることは出来ない。
それは皮肉でもなんでもない。ただの事実である。
ナツキは父親が亡くなったのに理解をしてからもピアノを弾きに来ることをやめなかった。
正直、声をかけることができなくて辛かった。彼女の姿を見るのも苦しかった。
私は父親として何もできない。友達とアキトを連れて来ようが何もできない。話しかける事も抱きしめる事も出来ない。私は猫であるから父親ではない。だから、私はひたすら自身を猫であると言い聞かせた。
大きくなるナツキとアキトを嬉しいと猫として思えるように、猫らしくいようと思った。
私は私自身に、猫である、と心の中で呟くたびに落ち着きを取り戻そうとしていたのだ。
人で在りたい、だなんて願いながらも猫らしくいようとしていたのだ。
猫は人に話しかけられない。
世の中の真理である言葉はいつも私の気持ちを伝えてくれなかった。だから、私は猫らしく、2人の父親ではなくて、猫であることを忘れずに、2人を想っていた。
2人を想うことが、2人をここで見ていることが、本当に地獄であった。
記憶を思い出せば思い出すほどに地獄であった。
どれだけ、もしも、の世界を考えたことか。どれだけ、別のもしも、の世界を考えたことか。どれだけ、もしも、の世界はこの世には存在しないと胸を痛めたことか。
思い出から作り上げた想像の世界なんて、この世界には存在しなかった。
もしも、ナツキの初失恋の際に私がいたら、声を届けることが出来たら、なんて言葉をかけられただろうか。
そんな世界を想像して、私はもっと良い言葉をかけられたのではないかと思っていた。
もしも、アキトの父親がちゃんと生きていたら、父親で悩むことがなかったら、彼は苦しい思いをしなくて済んだのではないだろうか。
そんな世界を想像して、私と笑い合う彼の姿を思っていた。
もしも、ナツキが初めての彼氏が出来たのを父親に話していたら。もしも、アキトが町を出て行くと父親に話していたら。もしも、おばあちゃんとおじいちゃんが亡くなった時に側にいられたら。もしも、ハルコさんと一緒に2人の成長を見守れたら。
そんな想像の世界は、きっと幸せで、実際にあり得たかもしれない世界だ。
想像して彼らに接していたから、ここは地獄だと思っていた。
ハルコさんと約束した未来予想図が叶えられず、彼らの成長を側で見守れなかった、と考えていた。
でも、私は彼らの側にいる猫として見守ってきた。
彼らがこんな猫になんで話しかけるのか不思議でならなかった。心のありのままを私に話しかけるのか不思議で仕方なかった。もしも、父親がいれば今までの辛いことはなかったと、ずっと考えていた。
でも、私は彼らの側にいる猫であった。
私は気がつかないうちに、猫として、彼らの家族であった。
父親ではなく、駅に暮らす猫として、彼らの家族であった。
もちろん、今の私は父親ではない。血の繋がりもない。でも、家族であった。
親には言えない秘密の遊び場も猫には言えた。
親には言えない失恋の悩みも猫には言えた。
親には言えない友人との会話も猫には言えた。
親には言えない話をたくさん猫にはしてくれた。
私はそんな家族として彼らの猫になっていたのだ。
父親がいない事を受け入れられなかったのは、2人の娘息子ではない。父親にいない事を受け入れられなかったのは、私であった。
私がそのことになんとなく気がついていたのは、いつからだっただろうか。
私は人と話す事は出来ない。私は人と悲しくて泣く事は出来ない。でも、私は人の側にいる事ができる。
私は猫である。このありふれた駅に暮らす住人である。
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