第7話
私は猫。この暖かい駅に暮らす住人である。
今日は年が明けて初めての雪である。白くて大きな粒が薄暗い空から落ちてくるのは、最近はほとんど見たことがないのだ。
だから、今日は特別な日なのだ。
この特別な日はとても寒くて、気分が舞い上がる。
そんな気分のまま、積もった雪に突っ込んだら寒くて凍え死ぬかと思ったのだ。
だから、今日はこの暖かいガラス板に囲われた待合室でゆっくりとするのだ。
「なぁー」
隣にいる白い毛並みの猫が鳴いて私を呼ぶ。彼女はマカロンである。
先に言い訳をしておくと今日だけ特別に停戦協定を結んでおるのだ。
普段は我が最速の脚をもって逃げ回っているのだ。
だけど、今日は特別にこうして暖かい部屋でまったりとぐうたらしているのだ。
特等席を2匹で仲良く2つに分け合って寝転ぶ。
通り過ぎる人や待合室に入ってくる人からは好奇の目で見られるのだが、我慢してやるのだ。
人の色恋ってのはとても人気があるのだ。だから、こうしているだけで面白がる人はいるのだ。
しんしんと雪が降り積もる駅の外は時間が経つとともに落ち着きを見せる。
電車も遅れているのか、駅員さんの声と待合室の苛立ちが空気に混ざり合い、なんとも言い難い空気が漂う。
ようやく来た電車に待合室の人たちは一つ息を吐きながら駅舎を出て行く。
それと同時に電車の中から出てきた人たちが駅舎の中に入り、待合室に来る人もいれば駅から飛び出すも人もいるような状態であった。
人様にとっても雪は忌々しく思う人は多いようだ。私は降った当初はえらく喜んでいたが、それも落ち着いていた。
私は薄目で待合室の中に入ってくる人を確認していると、見慣れた顔を見つけたりもした。
しかし、私から関わり合いに行くのも癪であったので、構いに行ってはやらないのだ。
そうこうしていると待合室は私とマカロン、そして長い髪の女の子だけになった。
雪が降っているのならば喜びそうな者だと思っていたが、どうやら今日はそう言った気分ではないようだ。
私はくわっと大きく欠伸をすると女の子はこちらに来ていた。
私は彼女を見つめると彼女は悲しそうな表情で私の頭を撫でた。
「……浮気者」
「にゃあん」
女の子は小声でボソリと呟く。
それがまるで本当に怒っているように感じる。
違うのだ。今日はたまたまなのだ。
「まあ、いいわ。そこ、退いてくれる?」
良くないのだ。それとぐうたらしている私に退いてくれとは相変わらず失礼な奴なのだ。
女の子は私の脇に手を回して持ち上げる。
私は抵抗をしようと考えていたが、彼女の表情にそれを止める。
彼女の痛々しい表情に私は抵抗するのが虚しく感じてしまったのだ。
私が待合室の木の長イスに置かれるとマカロンも私を追うように隣に来る。
「イチャイチャしやがって。浮気者」
「にゃあ」
イチャイチャもしてなければ、浮気もしてないのだ。
私がどれだけ弁解しようが彼女には伝わらない。それは私が猫であるからだ。
私に悪態をついた彼女であったが、私と一切視線を合わせない。
彼氏とでも別れたのだろうか? 荒れているのはそのせいなのだろうか?
彼女はピアノのイスに座ると鍵盤の蓋を開けた。
彼女は私と視線を合わしてくれない。どこを見ているのだろうか?
ピアノの中から音が出てくる。激しく、苛立ちに満ちた強い音。
その音に驚いたマカロンは待合室の扉まで逃げていき、カリカリと扉を引っ掻くとセンサーが反応して扉は開いた。
そのまま、ぴょんぴょんと跳ねながら逃げていく彼女はカエルではないのかと見間違えそうになる。
マカロンが逃げていこうとピアノを弾くことをやめない彼女はさらに音を強くしていく。
そんなに強く弾いたらピアノが痛がってしまう。
私は、やっぱり振られたかと思いながら彼女に近づく。
これは私なりの励ましである。
瞬間、ピアノが大きく悲鳴あげる。その音にびっくりして頭と尻尾を真っ直ぐに起き上がらせてしまった。
ピアノは悲鳴をあげてから何も音を出さない。
私はおそるおそる彼女の顔を伺うと大粒の雫がこぼれ落ちていた。
何があったのだ?
彼女の普通ではない表情に私は気が動転する。
ピアノのイスに飛び乗って彼女の膝上に身体を乗せる。
俯く彼女の顔から大粒の涙が私の顔に落ちてくるが、気にしてはいられない。
少し落ち着いてきた彼女は嗚咽混じりではあるが、ボソリと呟く。
「……ばあちゃんとじいちゃんが行方不明になった」
……え?
彼女が彼氏に振られたからこんなにも荒れているのだと思っていたが、違うようで私は理解が遅れる。
「ばあちゃんとじいちゃんの家が近所にあるから、よく遊びに行ってたんだけど。一昨日に親戚の家に向かってから連絡が取れない」
猫にこうして相談してくれることに嬉しく思う反面、私は彼女の言葉に困惑していた。
なんと声をかければいいのだろうか。
警察は? 親戚には連絡を取ったのか? お母さんはどうしている? 弟は知っているのか?
思わず出てくる言葉の数々。励ましの言葉など一切出てこないあたり、私はひとでなしなのだろう。
そもそも、私は猫であり、もう人ではない。
猫は話すことができない。
「私、ばあちゃんっ子だった。小さい頃、お父さんが帰って来なくなったあの日から、弟と一緒にじいちゃんとばあちゃんの家に行ってご飯食べてたりしてた」
彼女から溢れ出てくる言葉が私の心を濡らす。でも、猫は悲しくて泣くことはできない。
「お父さんがいなくなってからお母さんが忙しくなって、弟の面倒を見てた。それをずっと『偉いね』って褒めてくれたのは、ばあちゃんだった」
母親が父親の代わりに働き、ばあちゃんとじいちゃんが家の面倒を見る。そして、姉が弟の面倒を見る。
これがこの家族の在り方で、弟はこれを当たり前だとして不自由なく育ってきた。
姉はばあちゃんとじいちゃんから愛されて育ってきた。
彼女らに父親がいなかったからだ。
「じいちゃんは無口だったけど、優しくって弟に釣りを教えたりしてた。そんな二人が帰って来ない。お父さんの時と同じように帰って来ない」
彼女の涙は止まらない。彼女は親しい人がいなくなることを怖がり、そして帰って来ない人を待つしかできない自分に腹が立っているのだろう。
それを裏付けるかのように、彼女の手は強く握られて、僅かに震えて固まってしまっている。
「また、ここで待ってたあの日を繰り返すのかな。何も知らないままで、いつか帰ってくると信じて」
彼女は12年前にここで父親の帰りをピアノを弾いて待ちわびていた。
母親から父親は帰って来ないと聞かされていても、それを理解できないで、お父さんに喜んでもらうためにピアノを弾いて待っていた。
いつか帰ってくると信じて。父親の『またね』を信じて。
「……どうしたらいいんだろう」
彼女は疲れたように呟き、鼻を啜った。彼女の記憶が、彼女を蝕む。
私は彼女に声をかけてあげられない。猫は人の言葉を話すことができない。猫は人と一緒に泣くことができない。
「にゃー」
か細い私の鳴き声は彼女には届かない。
「何を言っているのかわからないよ、猫くん」
彼女は弱々しい声音で私の頭を撫でる。固く握られていた掌は震えていて、撫でる所作はぎこちなかった。
気がつけば雪は止んでいて、特別な日なんて事はまったくなかった。
ここはピアノのある駅。私はここの住人。
彼女の祖父母は、のちに海の中から車の中で遺体となって見つかった。それはこの駅舎の外よりも寒い海だったそうだ。
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