第6話
私は猫。不思議な空間が漂う駅に暮らす住人である。
最近の私はとても忙しいのだ。マカロンと名乗る猫に追いかけられているのだ。今日も彼女から逃げて、我が家に帰って来た。
話が変わるのだが、実は我が家は建て直したのだ。
新しく建て直された駅舎が今までと同じ木造建築であるのに安心していたが、ピアノは待合室とともにガラスの部屋に入ってしまい、その中に侵入するには手間がかかってしまうのだ。
我が家の主人である私に何という仕打ちなのだろうかと悪態をついていたが、ここ数日はコツもつかんできて、容易に帰ることができるようになった。
この木造建築の中に不自然に置かれたガラスの部屋。その入り口となるガラス戸に付いているセンサー。
このセンサーにうまく私の存在をアピールすれば良いのだ。
ガラス戸の近くをウロウロとしてセンサーを見つめていると、ウィーンと機械的な音とともに扉が開かれる。
お金持ちな気分とともに待合室へと足を踏み入れると部屋の中の暖かい空気が外の冷たい空気と混ざる。
最近は日に当たってないと凍えてしまいそうになるほど寒いのだ。ずっとこの部屋にいたいのだが、マカロンという猫がそれを邪魔してくる。
まったく。私はハルコさん一筋であると何度も言っているのだが、話を聞いてくれない。
浮気は文化、なんて猫でも思わないのだ。
いや、私以外の猫はしまくりかもしれない。そういうのは『漢』ではなく『オス』と言うのかな。
私はピアノのイスに飛び乗り、前脚を伸ばしてストレッチをする。
これを眠る前にやると寝つきが良くなるのだ。
「猫。久しぶりだな、猫」
私が眠る準備をしていると襟の詰まった学ランを着た男の子が待合室に入ってくる。
猫である。寒いから早く扉を閉めるのである。
男の子は私の近くの長椅子に腰をかける。私は前脚に頭を乗せて彼を見つめる。
「猫。何でか君と会う時は周りに人がいないね」
そうであるな。今日も君と私の二人である。
男の子は穏やかな表情で私を見る。幾分か大人びた顔つきに私は少し寂しくなる。
「今日は猫に会うだけのためにここに来た」
そうであったのか。何か大切な話なのだろう。
「来年、高校卒業したらこの町を出ようと思う。母さんと姉さんにはまだ言ってない」
そうであるか。それはとても大切な話であるな。
君だけではなく、君のお母さん、そして君のお姉さんも早く知りたいと思うのだ。
私は真っ直ぐと私を見つめる彼と目を合わせる。彼の真っ直ぐな目から腹を決めたこと。そして気持ちが揺らぐ事がないことを察する。
相談ではなく、会うために来たことが決意表明であったとは思いもしなかった。
迷いや相談を私にしても良かったのだと思うが、ここは優しい瞳で彼を見守る。
「まずは猫に、このことを言いたかった。……いや、君は否定しないと思ったから、先に言って自信が欲しかった」
まるで自分がずるい人間であるように、彼は言葉を変える。
そんなことは、ずるいことではないのに。
私は伝えてくれたことがとても嬉しいのだ。
話してくれたことがとても嬉しいのだ。
あまりに嬉しくって言葉にできないのだ。まあ、猫だから話すことはできないのだがね。
私はピアノの前屋根に飛び移る。一度に移ることは難しいので、鍵盤の蓋に足をつけて飛び乗った。
再び彼を見つめるとしっぽでピアノを叩く。
「にゃあ」
私のそんな様子を見ていた男の子は少し考える素ぶりを見せると短く声を漏らした。
「弾いてほしいのか?」
「にゃー」
そうである。嬉しいことがあったらピアノが聴きたいのである。
そして、私は察しの良い彼に満足である。
「そうか。猫、俺は『猫踏んじゃった』しか弾けないけどいいのか?」
踏むでない。本当に踏んだら怒るのである。
しかし、その曲しか弾けぬのならば、それを弾いてほしいのだ。
「何それ。笑ってるの?」
男の子は私の顔を見て、くすくす笑いながらピアノのイスに腰掛ける。
私は喜んでいるのだ。だから、笑っているのだ。
「それとも、踏んでほしいの?」
「ぎにゃー!」
踏んだら怒るのだ。だから、踏むでない。
私の反応にいたずらに笑う彼は楽しそうであり、迷うことにも悩むことにも向き合うことができるように感じる。
「冗談だ。それじゃあ、弾くぞ」
冗談で踏まれても、私には効かないのだ。
ピアノから音が出てくる。自身の無さそうに、思い出すように、ゆっくりと音が広がっていく。
少しずつ自信を取り戻していくピアノの音は、昔を懐かしむように音と音を反響させて、楽しかったことも、苦しかったことも、全てが音色になっていく。
踏み外す音も、綺麗に出た音も、彼が姉から教わった音も、私には眩しくって、やっぱり綺麗であった。
楽しく踊る音色でピアノの音が止まる。
今までの楽しかった時間が突然に終わってしまうように、ピアノの音は止まる。
時は風のように過ぎ去り、時を祈るようにして過ごす。
これはどこで聞いた言葉だろうか。耳に残るように今の気持ちがそう伝えていた。
「そうだ、言い忘れてた。卒業したらオーストラリアに行く」
彼がピアノを弾き終えて、鍵盤の蓋を閉じた時に思い出したように呟く。
そういう大切なことはもっと早くに言うのだ。
思い出すように言うのではないのだ。資金調達とか色々とあるだろうに。
「チョコレート工場の仕事を貰いに行くんだった」
彼はお小遣いでも貰いに行くように、いたずらに笑った。
いつまでも子供のように笑う男の子は知らない間に卒業生の顔つきになって、遠くに行ってしまうのだ。
今日はめでたい、嬉しい日である。
ここはピアノのある駅。私はここの住人。
今日は暖かい駅舎の中で、喜び、そして寂しく笑ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます