第5話



 私は猫。誰もいない駅に暮らす住人である。


 誰もいないと言ったが、“今は”誰もいないだけである。

少しずつ寒くなってきたこの頃は駅舎の外で日向ぼっこをしているので、我が家を空けることが増えてきたのだ。

だから、私が家に帰る頃にはコンクリートに置かれた猫缶とガランとした駅舎の中央に置かれたピアノが寂しそうに待っているのだ。


 私は駅舎の中に入ると猫缶に食らいつき、ピアノのイスの上でゆっくりとする。


 大丈夫なのだ。私も独りなのだ。


 私は寂しそうなピアノにそう伝えるとイスの上でぐうたらする。


 最近は仕事のないピアノも私の寝る場所を提供してくれている。

日なたで温めた体をイスにつける。

こうすることによってイスがぽかぽかとしてくるのだ。


「よし、猫くん。退くのだ」


 突然の声に私は驚いて声の主を見ようと振り返った。

短いスカートにブレザー、赤いリボン。制服の着方が女子高生なのだ。


 私の視界の外から近づいてきた彼女は私にニヤニヤとさらに近づいてくる。


 私の特等席なのに、退けとは失礼なJKなのだ。

私は絶対にこの場所を譲らないのだ。

これは世界が認めた絶対の約束なのだ。私が私自身とそういう約束を結んだのだ。

そういうことだから。


「猫くん! 退くのだー!」


 JKは私の脇を掴むと持ち上げようとする。


「にゃー!」


 やめるのだ! 本当にやめるのだ。

せっかく温めたイスが冷えてしまうのだ。


 私は爪を立ててイスにへばりつく。イスが軽く引っ張られて、イスの足とコンクリートが当たって音を立てる。


「あっ! 爪を立てるな!」


 嫌である。


「このー、離せー! イスが破けちゃうだろ」


 お主が諦めれればイスは破けないだろう。


「そういうことするなら……」


 JKはそういうと掴んでいた脇を離して、私の横首を撫で始める。


「ほら、ここがいいんだろう?」


 お、おうふ。だ、ダメである。

このJKは卑怯なのである。そこは私の弱いところである。


「ここだろう? 身体に力が入らなくてなってきたんじゃないか?」


 こ、こんなのに屈するなんて……にゃぁー!


 私の立てていた爪とイスが離れる。JKはその隙を逃さずに私の体をひょいっと持ち上げた。


「イス、ゲットー!」


 ず、ズルすぎるのだ。世界が認めた約束が破られてしまったのだ。


 私は彼女に持ち上げられながらも、体をばたばたと動かして必死の抵抗をする。


「まったく。いつもぐうたらしてるのに、こういう時だけ活発なんだから」


 私を冷たいコンクリートの上に置くとJKはイスにどかっと座る。

彼女の大きいお尻にイスの余ってあるスペースもわずかだ。

私がイスに乗っても、だらける事は出来なそうである。


「何か失礼な事を言われた気分だ」


 なんて察しの良いJKなのだ。こうも悪口が伝わってしまうとは気をつけなければならないのだ。


 私は知らん顔をしてピアノの近くに置かれたパイプ椅子に飛び乗る。

JKの方を向いて寝転ぶと彼女は私の様子にくすりと笑った。


「あ、そうだ。猫くんに報告があったんだ」


 思い出したようにJKが手を叩く。そして、私の方を向いて、恥ずかしそうに、嬉しそうに、ニマニマと、ニヤニヤと、満面の笑顔を見せる。


「私、彼氏出来たの」


「……にゃっ!?」


 私は突然の彼女の告白に動揺を隠せない。私の反応に彼女は満足そうに、ふふっと声を出して笑う。


「人生で初めてよ。とっても嬉しいわ」


 そ、そそ、そうであるか。それは私も嬉しいのである。

猫に話しかける変わり者の彼女に、それを理解できる人が現れたという事なのにゃろうか。


「逢いたくて震えるかと言われると、そこまでではないけど、明日が楽しみだ」


 彼女は鼻歌混じりにそんな事を言う。


 最近の女子高生は震えるか震えないかで逢いたいレベルを判定するのだろうか。

猫の私には到底わからないことで、怖くて震えてしまう。


 いつもよりも浮き出し立つような音がピアノから広がってくる。

ふわふわと甘い香りでもしてきそうである。

空中に浮かぶ音が弾けて、同心円上に音が広がっていく。


 落ち込んでいたときも、踊ってしまうほどはしゃいでいたときも、知らぬ間に伸びた長い髪である今も。

彼女の音は素直で優しい。私のお気に入りの音である。


 素直で優しいのが、とても綺麗で。私も楽しくなってきてしまう。


 彼女はピアノを弾きながらこちらを横目で見る。


「ふふ、なにその表情。喜んでるの?」


 喜んでいるのではない。楽しんでいるのだ。

いや、もう浮き足立つ気持ちに楽しんでいるのか、喜んでいるのか、わからないのだ。


 彼に会う事を楽しみにする音はやがて静かに落ち着いていく。


「あー、楽しかった」


 JKは鍵盤から手を離すと、ご機嫌に足をぷらぷらとする。


 今日の彼女は本当に楽しそうなのだ。でも、その表情は陰影をつけ始めていく。


「はあ。こんな能天気だから弟の気持ちに気がつかなかったんだろうな」


 喜んだり、悲しんだりと忙しいJKなのだ。

突然に思い出した理由はわからないのだが、彼女が気にしている事はわかる。


 私はパイプ椅子から降りて彼女の側に寄る。

これは私のせめてもの励ましなのだ。


「ふふ。慰めてくれて、ありがとう」


 JKは嬉しそうに微笑む。体を屈めて私の頭を撫でる。


「今日、弟とケンカしちゃった。私、惚けているから弟が悩んでる事に気がつかなかった」


 えへへ、と彼女は困ったように笑い、気にしていないように取り繕う。


 ここには誰もいないのだから、話していいのだ。ここは君以外は誰もいない駅だ。猫と君しかいない。


「私ね。お父さんいなくて、お母さんが仕事で忙しいから家事とか私がやってたの。それで弟の母親代わりみたいな事してて、弟に親みたいな叱り方したら怒られちゃった。『姉ちゃんは俺の親じゃないだろ!』だってさ」


 本当にその通りだよね、と彼女は気持ちを隠すように笑った。


 弟の言う通りである。君は恋する女の子なのだから、年相応なワガママを言ってもいいのだ。

そのワガママは弟に言ってもいいのだ。


 そんな事を猫が思っても言葉として彼女には伝わらないから、慰めにもならないのだけれどもね。


「そうだね。弟も高校生だし、手伝ってもくれるよね! もう、溜め込む前に話して欲しい!」


 私の伝えたい事に返事をするように、彼女は少しむくれながら話す。


 うむ。なんで伝わったのだ。

彼女の変わり者体質がそうしたのか、私がまさか本当に人間の言葉を話したのだろうか。


 あー、あー。私の言ってる事がわかるのか?

わかるのなら右手を上げて欲しいのだ。


「にゃー」


「ん? なになに?」


 彼女は私の鳴き声に首を傾げる。


 ダメだ。わかってないのだ。本能的に私の伝えたいことを察しただけのようだ。

彼女のこうした不思議なところは魅力なのだろう。


「よし、もう一曲弾くぞー」


 彼女は楽しげに私の脇を手で掴むと持ち上げた。


「それか、このまま猫くんとクルクル回って踊るぞー」


 喜んだり、悲しんだり、怒ったりと忙しい彼女は、ついには浮かれて狂ってしまったようだ。


 彼女は私の体を掴んだまま、イスから離れてクルクルと回り始める。

なんで回るのだ! 本当にわからないのだ!


「あはは、楽しい!」


 私は楽しくないのだ。もう若干気持ち悪いのだ。


「……にゃぁ」


 彼女の元気な声とは対照的に私の声はぐったりとしていく。


 電車がいくつ来ようとも彼女は素直に、楽しそうに、喜んだり、悲しんだり、怒ったりと、ありのままに回っていた。


 女子高生がこんなにも元気で、自由で、全力だとは思わなかったのだ。


 ここはピアノのある駅。私はここの住人。

今日は不思議な空気が漂う駅舎の中で、回って歌って笑いあったのであった。

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