第3話
私は猫。この静かな駅に暮らす住人である。
最近は暑すぎて駅舎の外にできる日陰で過ごしている。
ピアノの音はしばらく聴いておらず、この蒸し暑い中で弾こうとする人はいないようだ。
私もこの蒸し暑い駅舎の中で過ごすのなら外で風に当たっていたい。
人間との利害の一致である。
ここ数日は日の向きが変われば私のお昼寝位置も変えていくなど、工夫をしながら過ごしている。
夕方には散歩のおばちゃんから貰った猫缶を腐らないように急いで食べる。
今日も猫缶は美味しいのである。
ほぼ毎日を猫缶をいただいて過ごしている。つまり、私が猫のゆとり世代だ。
猫缶を食べ終えると駅舎の中に入る。
ピアノのイスで食後のゴロゴロをしようと思っていた。
しかし、私の特等席には先約がいたようで、学生服の女の子が先に占拠していた。
先約もなにも私のイスであるのだから、座ることは許さないのだ。
私はピアノの鍵盤に蓋をして、ふて寝する女の子の隣に飛び乗った。
私が隣に飛び乗ったのに気がついたのか、ふて寝女子が驚いて伏せていた顔を勢いよく上げる。
「うわっ! なんだ、猫ちゃんか」
まだ幼さの残る顔が私を凝視する。
うわっとは失礼なやつめ!退くのである。
私は頭をふて寝女子にくっつけて、イスから押し出そうする。
しかし、ふて寝女子は動かない。
「なんだ?」
「にゃん」
こいつは重たいのだ。
私は押すのをやめてふて寝女子の顔をみる。
「何か失礼なことを言われた気分だ」
こういったときだけ意思疎通が出来るとは神様も意地悪なやつだ。
「まったく。人が落ち込んでるのに。やめてよ」
ふて寝女子はため息混じりに呟く。
その顔をまじまじと見ると彼女の目元は少しばかり赤い。……泣いていたのだろうか?
私はそんなふて寝女子にかける言葉がなかった。猫なので人間の言葉なんてかけることができないのだけれどもね。
しかし、彼女を放っておくことも出来ず、私は彼女の脚に前脚を1つ置く。
前置きに言っておくとセクハラではないのである。
決してセクハラではないのである。
重要なので3回目も言っておくとセクハラではないのである。
「なに? セクハラ?」
「にゃー!!」
違うのだ! 私はやっていない! そんなつもりもない!
急いでふて寝女子の脚から前脚を降ろす。彼女は私の焦りように、くすりと笑う。
「にゃぁ」
「なにさ?」
声をかけるとふて寝女子が私に目を向けた。私はそれを確認するとピアノの上に飛び乗った。
「にゃあ」
私は尻尾でピアノを叩くとふて寝女子に弾くように促す。
しかし、彼女は私の伝えたいことを理解出来ずに首を傾げる。
「なによ?」
こういったときに意思疎通が出来ないとは神様も意地悪なのだ。
ふて寝女子の気持ちが落ち込んでいる理由はわからないが、ピアノを弾けば落ちた気持ちも浮かんでくると思ったのだ。
とは言えど、彼女が私の言いたい事がわからなければ、励ますもの無駄なのだ。
私は伝わるかわからない難題を前にどうするのかを考える。こういったときに猫頭なので、柔軟な考え方が出来ない。
どうするか考えながら鍵盤の蓋に飛び降りて、右に、左に、左右に往来する。
「ピアノ、弾いてほしいの?」
「にゃっ?」
私の考えて歩く姿にふて寝女子は伝えたいことを察する。
私は彼女の言葉で鍵盤の蓋の上からピアノの前屋根に飛び移る。
「にゃーん」
私はふて寝女子を見て、ご機嫌に声をかけると彼女は可笑しそうに苦笑いする。
「なにその表情。喜んでるの? 落ち込んでる人にワガママね」
ふて寝女子は柔らかく笑うと鍵盤の蓋を開ける。
私のワガママというよりも君のためにピアノを弾いてほしいのだ。
言葉の伝わらない相手ならば勘違いされても訂正できないし、誤解は仕方がないと私は諦めてあげる。
彼女がピアノの鍵盤に1つ指を落とすと、彼女の音がピアノから跳ねてコンクリートの床に落ちると跳ねずに転がる。
やがて、いくつかの音が鳴り響く。1つ1つの音がゆったりと床に落ちる。
そして転がらずにコンクリートに深く沈み、響く。
音は陰影をつけて同心円上に波となって広がり、他の波と干渉し、豊かに奏でられていく。
音の1つ1つが色づいて、響くたびに悲しそうに奏でていく。
恥ずかしいほどにわかる音であった。このふて寝女子は悲しく、苦しく、締め付けられているのに、自分を縛っている紐を解くことができない。
気持ちに偽りはなく、真っ直ぐと1人の人間を見つめているのだ。
音が鳴り止むと聞こえてきたのは嗚咽であった。
私はピアノを弾かせて、彼女を泣かせてしまったようだ。
私はイスに飛び移り、彼女の隣で何も言わずに座る。
しばらくすると彼女は落ち着いてきて、ポツリポツリと話をし始めた。
「私ね。告白も出来ないでフラれちゃった」
ずずっと鼻を啜りながら語り始める。私はそれを静かに聞く。
「ずっと仲が良かった。私が隣にいることの方が多かった。でも、あいつが見ているの私じゃないんだもん」
好きな人が自分を見ていない。相手を見れば、自然とその人の目で追う人がわかってしまう。
それは好きな人をよく見ているからわかることなのだろう。
幼さの残る顔の透き通る瞳から大粒の涙が1粒。また1粒とこぼれ落ちる。
私はそれを拾おうとして前脚を伸ばすが、届かない。
「私が一番彼を好きなのに。昔からずっとそうだったのに」
彼女が想い人を語るごとに雫は落ちる。
「昔からの時間を私じゃない誰かに取られて……ぅぅ、ぁぁ」
想いは嗚咽へと変わっていく。
想いを吐き出そうにも想い出は多くて吐き出し足りない。
ゆっくり、ゆっくりと彼女の想いを聞いていく。
時間は優しく過ぎていく。
彼女の初めての恋が、想いが終わるまで、まだ時間はかかる。
「あぁ、大好きだな。私じゃダメだったのかな」
彼女は黄昏る。
私は猫で、彼女は人間。私が出来ることはほとんどない。
だから。せめて。時間が許すまで。こうして優しく時が流れていくことを願った。
彼女の手が私の頭を撫でる。私は彼女を泣かせてしまった責任として、彼女の気がすむまでこうしていようと思った。
気がつけば、黄昏時は終わっている。
ここはピアノのある駅。私はここの住人。
今日は優しい時間が流れる駅舎の中、初恋が終わるまで黄昏るのであった。
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