第二章
第二章
「じゃあ、もう人がいなくなったし、車いすエレベーターで、改札まで行くか。」
と、マーシーが言った。もう、急いで階段を上っていく人たちは、ホームにいなくなっていた。
「そうだね。ここからは一人で行けるよ。」
と、蘭は言ったが、マーシーは最後まで送っていくといった。蘭は、そんなおせっかいはしてもらいたくないと思ったが、マーシーの好意もつぶせなくて、しかたなく甘えることにした。
「じゃあ、よろしく頼むよ。」
「はいよ。」
蘭はマーシーに車いすを押してもらい、車いすエレベーターまで移動した。
「よし、改札へ行こう。」
マーシーはエレベーターのボタンをおし、蘭をエレベーターの中へ入れて、自分もエレベーターにはいった。
「改札階に到着です、こちら側のドアが開きます。」
と、エレベーターのアナウンスが流れる。
「おい、次はこちらのドアが開くよ。」
蘭は慌ててそういうが、
「おうわかっている。そのままバックでお前を出してやる。ここのエレベーターは狭すぎるな。方向転換出来ればいいのに。」
にこやかに笑ってマーシーは言った。同時に後側のドアが開いた。マーシーは、堂々と蘭の車いすをバックさせて、蘭を外へ出した。
「ありがとうな。もういいよ。」
と、蘭は言ったのだが、マーシーは、車いすに手をかけたままだ。蘭に、カードか切符を貸してくれという。蘭がその通りにスイカを渡すと、マーシーは、駅員にスイカを渡して、蘭の改札まで代行してくれたのである。
「ほんと、今日はありがとうな。まあおまえが来てくれたおかげで助かった。こんなに手取り足とりしてくれたせいで、スムーズに出れたよ。じゃあ、なにかお礼でもするからさ。これでなにかほしいものでも買ってくれよ。」
蘭はマーシーにお礼として一万円札を渡したが、
「いいよ、そんな事をしたら、お前がまるで電車に乗っては行けないようにみえるぞ。」
と、マーシーはにこやかに笑った。
「事実そうじゃないか。あの時のほかのお客さんなんて、お前のせいで電車が遅れて!と、白い目で僕のこと睨んでいただろ。だから、僕が、いい顔しちゃいけないんだ。こういう事をしなくちゃ。」
蘭がもう一回言うと、マーシーは少し考えて、
「わかったよ、蘭。お前がそうしなきゃ行けないと考えるのならそれでいいよ。ただ、今のところ生活道具などは間に合っているから、金なんか貰ってもしょうがない。食べ物で払ってもらおう。」
と言った。つまり、なにか食べさせてくれというわけだ。
「よし分かった。この近くに旨いフレンチあるから、そこへ行こう。なんでも食べてくれ。ごちそうするから。」
と、蘭は言うが、マーシーはフレンチなんて高級な物はとても食べる気がしないといった。じゃあ
何を食べるんだと、蘭が聞くと、
「同じ食べるとしたら、ラーメンとかうどん何かで十分だよ。」
と、またにこやかに笑った。ところが、ラーメン屋さんなど、蘭はほとんど知らなかった。どこか知っているラーメン屋さんでも教えてくれと言われても、どこにあるんだか思いつかない。やっと松本にある、ぱくちゃんが経営しているラーメン屋を思い出して、マーシーにタクシー乗り場まで連れて行ってくれと頼む。
「ラーメンというか、黄色い讃岐うどんのような物を出している店だが、そこで我慢してくれ。」
タクシーが松本まで向かっている間に、蘭は申し訳なさそうに言った。マーシーははいよ、と言って、にこやかに笑っていた。
タクシーは、「イシュメイルらーめん」と看板を掲げている店の前で止まった。とりあえず運転手に
降ろしてもらい、二人は店の中にはいる。売れない店らしく、ほかの客はお昼時だというのに誰もいないが、マーシーは気にしない様子だった。とりあえず、テーブル席に座らせてもらって、一般的なトマトランマンを注文する。ちなみにランマンとは、ウイグル語でラーメンの事であった。
「本当にありがとうな。今日は手伝って貰っちゃって。」
ラーメンが来るのを待ちながら、蘭は申し訳なさそうに言った。
「いいよ、気にしないで。お前は気にしすぎだよ。」
にこやかにマーシーは答える。いつもにこにこしていられるのは案外羨ましいし、それに、ちょっと怖い気もした。蘭はそれを聞いてみたいと思った。
「お前さ、なんでそんなにいつもにこにこしてるの?何か学生時代の時は、もっと反抗的な目つきだっただろ?」
「よく言われるけど、怒った顔ばかりしていては、しあわせもやってこないからな。」
と、マーシーはまたにこやかに言った。
「お前もそうさ。堂々としていればいいんだよ。あんな風に電車の中で縮こまってちゃダメだい。」
「いやあ、無理だよ。」
と、蘭は言った。
「僕たちはやっぱり、会社で勤めている人たちに養って貰っているような物なんだから。ちゃんとその人たちには敬意を示さなきゃ。もしかして、僕のせいで大事な出勤時間に遅れて大損をした人だっているかもしれないだろ。その原因を作ったのは僕なんだし、ちゃんと働けるひとに謝罪しなくちゃいけないよ。」
「あら、そうかなあ。」
と、マーシーは言った。
「そりゃ、お前が小さくなりすぎているから悪いんだ。ちゃんと働けるなんて、一瞬の事じゃないかよ。けがをしたりして、車いすに乗ることなんて、誰でもあり得る話だぜ。そう考えたら、何もへりくだる必要はない。」
「お前はすごいな。そんな事言えるなんて。大体の人は、僕みたいな人に対し、能率を悪くするやつとか、生産性を邪魔するやつとか、そんな風にしかみないぞ。それに、僕が知っているお前は、そういう事は、いうやつじゃなくて、僕みたいな人を憎んでいるようにみえたけど?」
蘭は、小学校時代の事を言った。たしかに小学生時代のマーシーは、勉強が碌に出来なかった
せいか、クラスの評判を落とす邪魔者とされていた節があった。教師からそういう風にしか扱われなかったマーシーは、教師から可愛がられていた蘭に嫉妬していた事もある。
「そんな事、むかしの事じゃないかよ。あれから、30年以上たって、僕もお前もすっかり変わってしまった。学生時代の事なんて、何も大したことないさ。僕はきっと、お前とは違う別の世界で生きてきた男だよ。でも、其れはそれでいいと思っている。いろんな人生を歩んできた奴がいて、それで世のなかおもしろくなると思うから。」
マーシーのこのせりふを聞いて、蘭は何だかマーシーの方が、自分よりも、優れた男になってしまったというか、偉い男になってしまったような気がした。その別の人生の事を、もっと詳しく教えてほしいと思った。
「お前は、どんな人生だったの?」
蘭は、そう聞いてみる。
「ええ?お前みたいに立派な大学を出たわけでも無いし、高校も行かなかったから、偉くもなんともないよ。」
「いや、教えてくれ。僕みたいなのに、手を出せて、そのうえ、そういうせりふまで口に出せる奴なんてそうはいない。お前はいま何をしているんだ?どっかで勤めているのか?」
「恥ずかしいなあ、勤めてなんかいないよ。お前も知ってるだろ。こんな頭の悪い奴を雇う会社なんて何処にもない。だから自分で始めるしかないよ。今は自宅でピアノ教室やっているけどね。ショパンのソナタを弾きこなせるような、上手い奴がいるわけではないし。大したことないよ。」
「ピアノ教室だって!お前がか?」
蘭は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「あらあ、いいじゃないですか。この人も、なにか楽器をやりたいなんていって聞かないのよ。楽譜だって碌すっぽ読めない癖に。そういう初心者ばかりならはいれるかも。教えてやって頂戴な。」
ランマンの乗ったお皿をもってきた亀子さんが、顔を粉だらけにしているぱくちゃんを顎で示した。奥ではぱくちゃんが照れくさそうに笑っている。
「ついでに、この人に、正しい日本語も教えてやって頂戴。覚えようとはしてくれてるんだけど、ちっともわかってくれないから。」
「いやあ、すみません。僕らは基本的に学校へ行こうなんて夢のまた夢で、勉強しようという事もならず、、、。」
頭をかじりながらぱくちゃんは言った。
「僕らの国では、学校へ行ける人は、それだけで高嶺の花なんだよ。」
「そうですか。そうなると、僕はまた贅沢をしているのかもしれませんね。僕は中学校を出た後、高校を受験する気にならないで、何もしないで過ごしてましたよ。まあ、ピアノがあったから、べートーベンの熱情とか弾いて気を紛らわしていました。そのまま、20代、30代を過ごしてしまって、40になってなにかしないと行けないなと思い直しましてね。それで、大検を取って、通信制にはいりなおしたんです。それで、いま、卒業してお教室をやっているという訳で。」
「いいなあ。僕は、農作業をしながら、毎日通学路を歩いて行く人を、眺めていたよ。そうしながら僕は学校へ行っている様を想像していたよ。どっちにしろ、僕たちは農場で働くか、炭鉱で働くかしか道はないから。大人になってから学校で勉強できるなんて最高じゃん。」
マーシーの話にぱくちゃんはしんみりと言った。
「全く、日本に来たんだから、そんな発展途上国の思い出を堂々と語らないでよ。恥ずかしいわよ。」
亀子さんは、そういうが、ぱくちゃんとマーシーは、互いの不自由な所を語り合うのだった。全く対照的な二人だったけれど、勉強をしたいという思いは二人とも共通しているのか、対立しあうような事は全くない。ぱくちゃんに取っては学校は高嶺の花だし、マーシーには嫌な場所であるはずだから、絶対かみ合わないだろうと蘭は感じていたのだが、不思議なことにそれは生じなかった。
なぜか、この時点で蘭は、二人の話に置いていかれてしまったような気がした。
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