第三章

第三章

蘭が、マーシーと事実上の再会をして、数日たったある日のこと。

蘭がいつも通り、自宅内で下絵を書いていた所、

「蘭、電話よ。早く出てやりなさいよ。」

居間で久しぶりにテレビを見ていたアリスが、間延びした声で、そういうのだった。刺青の依頼客だろうか。もう、其れならうちの固定電話ではなくて、スマートフォンにしてくれればいいのに。なんでわざわざ、固定電話にしてくるんだろう。蘭は、頭をフリフリしながら、電話台の方へ行って、受話器をとった。

「もしもし。」

「あ、蘭さん。あたし、亀子ですが。」

電話してくれたのは、依頼客ではなくて亀子さんであった。

「はい。何でしょう。」

「あのね、こないだお会いした人いるじゃない。あの、ピアノ教室をやってらっしゃる方よ。うちの人、本気でピアノを習ってみたくなったんですって。だから連れていきたいんだけど、場所何処だかわかる?」

と、亀子さんはいうのだった。

「ああ、あの高野正志ですか。えーと実は。」

蘭はそう言っても、あの時正確な住所を聞きそびれていた事に気が付く。何だかマーシーとぱくちゃんの学校話に圧倒されて、自分は店の中で小さくなっていたのだった。

でも、知らないなんて、そんな事を言ったら、亀子さんはさぞかしがっかりするだろうなと思った。それに蘭は、何だ、知らないの?何ていわれる事も嫌いだった。そんな恥をかいたら、もしかしたら自分の学生時代の事を、あのぱくという人が聞き取ってしまうような気がする。自分の贅沢すぎる悩みを、ぱくは、馬鹿にして笑うだろう。そんなことは絶対に嫌だった。

「わかりました、じゃあ、住所を調べておきます。」

とりあえず蘭はいう。

「あ、お願いしていいかしら。じゃあ、何処にあるのか分かったら、あたしに電話をいただけませんか。うちの人、クルマの免許を持っていないので、あたしが連れて行かなきゃならないから。」

「いえ、僕が連れていきます。」

亀子さんの言葉を遮って、蘭は言った。

「僕が調べるんですから、僕が連れていきますよ。それに、僕が一緒に行ったほうが、顔見知りですし、高野くんも、早く承諾してくれるのではないかと思います。」

「そう。ありがとう。蘭さん。悪いわねえ。そうしてくださると、助かるんですよ。だって、二人一緒ですと、お店を半休しなきゃ行けませんし。じゃあ、場所が分かったら、すぐ連絡ください。うちの人、早く習いに行ってみたいって、楽しみにしています。」

蘭がそういうと、亀子さんはにこやかに言う。蘭は、これはたいへんな役を仰せつかったと思って、

「じゃあ、調べてご返事して差し上げますから。それでは、今しばらくお待ちください。」

と、言って、亀子さんの返事も聞かずに電話を切った。

受話器を置いた蘭は、すぐに仕事場にもどった。机の引き出しを開けて、急いでタブレットを取り出す。検索アプリを出して、検索欄に、ピアノ教室高野正志と入力した。

多分、有名なピアニストという訳ではないので、見つかるはずはないだろうなと思った。しかし、あろう事か、全日本ピアノ指導者協会という組織のサイトから、高野正志という名が出た。あいつは、そういう組織にもちゃんとはいっていたのか。蘭はおどろいてしまう。

そこで蘭は、その指導者協会のページを開いて見ると、そのページは会員名簿だった。氏名高野正志、住所静岡県富士市水戸島。何だ、意外に近いところに住んでいたのか、と、蘭は思う。教室名は、ピアノサロン高野という名前だった。何だかピアノ教室らしくないなと蘭は思ったが、その理由は次のような説明でわかった。

「当サロンでは、演奏家を育成する所ではありませんが、ピアノを楽しんでほしい、心を癒してほしいという目的で設置いたしました。あくせくした日常の中、音楽で心を癒して見てはいかがですか?」

これが、この教室の象徴のような、紹介文だとわかった。

住所の隣に電話番号が書いてあった。固定電話を敷いていないのだろうか。スマートフォンの番号である。

「よし、かけてみよう。」

蘭は、スマートフォンを取って、そこに書いてある電話番号に電話をしてみた。

ベルが三回なって、がちゃんと音がする。

「はい、ピアノサロン高野です。」

マーシーの声だ。

「あ、あの、蘭だ。ちょっとお願いがあるのだけど。」

蘭はちょっと口ごもりながら、そういってみた。

「おう蘭。どうしたんだ。なにかあったのかい?」

いつもと変わらない明るい口調のマーシーである。

「いや。ちょっとお願いがあるんだけどね。ちょっとね、この間一緒に行ったラーメン屋のご主人がね、ピアノを習ってみたくなったらしい。連れていきたいが、お前の教室は何処にある?」

蘭がそういうと、マーシーは来てくれるのか、と嬉しそうであった。そして水戸島のマックスバリューの近くだよ、と説明した。多分マックスバリューから歩いて五分もかからないという。蘭がタクシーでどういったらいいかと聞くと、マックスバリューで降ろしてもらって、そこから歩いていけばいい、高齢の生徒さんはみなそうしているよという。マックスバリューの近くに、小さなカフェもあるので、そこで食事を取って帰る生徒もいると説明した。蘭は其れならよかったと礼を言い、明日、連れて行ってもいいだろうか、と聞くと、

「ああ、ぜひ連れてきてくれ。うちは大手の音楽教室ではないので、なかなか生徒さんも来ないんだよ。」

と、マーシーは言った。蘭はすぐに予約を取り付ける。というのは、あのぱくという頭の悪そうな外国人が余りすきではないということが頭にあった。

「それでは、よろしく頼むな。明日の10時過ぎにそっちへ向かうから。それでは頼むぞ。あ、それからな、大事な事を言い忘れたが、その主人は楽譜なんて全く読めないそうだが、其れでもいいかい?」

蘭は、あらためてそれを聞くと、

「ああいいよ。そういう人は沢山いるから、こっちも其れなりに、教えているよ。其れは心配しなくていいからね。」

と、マーシーはにこやかに笑っていた。まあたしかに音楽の専門家であれば、そういう事はへの河童なのかもしれないが。

「じゃあ、よろしくお願いします。」

「はいよ。明日ね。」

蘭は、そういわれて、電話を切った。そして、あらためて亀子さんの元に電話をする。予約が出来た

と伝えると、亀子さんはとても喜んでいた。

翌日。

蘭は、タクシーに乗って、イシュメイルらーめんに向かった。ぱくちゃんは、亀子さんに急かされて、急いで蘭の乗っているタクシーに乗り込む。

「えーと、水戸島のマックスバリューに行けばいいのですね。そこの駐車場で降ろせばいいのかな?」

運転手にそういわれて、蘭は、はいそうですと言った。へい、毎度ありと、運転手は、タクシーにエンジンをかけた。

水戸島は比較的近かった。クルマで行ったら15分もかからない。運転手と天気の話とか日常的な話をしていると、すぐについてしまった。

「はい、こちらが水戸島のマックスバリューです。」

運転手は、ある大型スーパーマーケットの駐車場にはいって、タクシーを止めた。たしかにマーシーが言った通り、敷地内に小さな喫茶店が立っている。

「ありがとうございます。じゃあ、敷地内で降ろしてください。」

「はい。毎度あり。」

運転手は手ばやくドアを開けて、二人を降ろした。ぱくちゃんが手伝おうかといったが蘭は断った。急いで地面に降ろしてもらうと、蘭は、マーシーにいわれた方向へ移動し始める。たしかに距離は短く、五分もかからないで到着した。マーシーの家は、平屋建ての小さな家で、やっぱりマーシーは結婚しておらず、一人で暮らしているんだなとわかった。そうでなければ平屋建ての家に住む筈はない。表札には、高野とは書かれているものの、ピアノ教室であることを謳っている看板のような物はなかった。特に音が漏れている事もないので、本当にピアノ教室なのか不審な気持になってしまう。

蘭はとりあえず、インターフォンを押した。

と、中でガチャンと音がして、ちょっと待っててという声がして、玄関ドアが開いた。

「おう、来たぜ。マーシー。」

「よく来たな。二人とも中に入って。」

マーシーにそういわれて、蘭は緊張しているぱくちゃんと一緒に、部屋の中にはいらせてもらった。

マーシーは、二人をレッスン室にはいらせた。レッスン室と言っても、さほど広い部屋ではなく、グランドピアノと、机が一台置かれているだけである。

「まだ、前の生徒さんのレッスンが、終わってないからさ。ちょっと待っててくれないか。そこの机にでも座ってくれよ。」

と、マーシーに言われて、蘭とぱくちゃんはその机の前に座った。

その生徒さんというのは、もうかなりの歳のおじいさんで、年を取ってから、ピアノを習い始めたようであるが、結構楽しそうな顔つきをしてピアノを弾いていた。意外にかなりの腕前だ。蘭は、さほど大曲は扱っていないのではないかと思っていたが、そのおじいさんが弾いていたのは、かなりの難曲である、ショパンの幻想即興曲である。

「よし、だいぶできたじゃないですか。じゃあ、この次は来週でよろしいですか?」

と、マーシーが聞くと、

「はい、一週間後でお願いします。」

とにこやかに笑っているおじいさん。こちらに来るのがたのしそうでたまらないという様子だった。それを見て、今までのピアノ教室とはちょっと違うんだろうなと、蘭は直感で思った。

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