第15話 マス釣り
(俺はいったい何をしてるんだろう……)
ハビエルは、ふと我に返り辺りを見回す。
清流のせせらぎに時折小鳥の囀りが重なり、耳にも軽やかに響く。
脛のあたりまで水に浸かった素足は冷やりと心地よく、いつもは皮のブーツで締め付けられている足が、水の中に溶けていくようだ。そして、その足元の網の中には美しいマスが一匹ゆらりと光を揺らす。
ハビエルはいま、アビラの城壁の外を流れる川で釣りをしていた。
一体全体、何がどうなればこうなるのやら……
昨夜の出来事を思い浮かべる。
◇◇◇
昨夜、ハビエルが賊を衛兵に引き渡して宿屋に戻ると、ナンテン姫と赤彦が食堂で待っていた。
夕食時の食堂は、昼とは打って変わって宿泊客で混み合っており、行商人達が酒を酌み交わして談笑する声が溢れていた。
明日の商売に向けて、自分たちがこれから向かう街の情報を互いに交換している。
その喧噪の中でも、一番奥のテーブルに座る二人の姿はすぐに目についた。赤い衣装に身を包む大男はもちろんだが、それよりも、部屋の隅から食堂全体を睥睨する黒髪の少女に目が奪われる。
少女が身に纏う不思議な空気に、ハビエルは姫と呼ばれる存在を確かに感じた。
混み合ったテーブルの間を、流れる水のようにすり抜けるハビエルの足運びに赤彦が目を細める。
「遅くなりました」
「いや、遅くは無い。まぁ座れ」
赤彦は、ぶっきら棒だが
「で、首尾はどうであった」
ハビエルが席に着くやいなや、ナンテン姫が話を切り出す。
その大きく黒い瞳には、テーブルに置かれた燭台の光以上の輝きが灯っている。
「プリンセサ・ナンテンの仰ったとおり二人を捕まえ、残る二人は深追いせずに逃がしました」
この少女には既に事の顛末は伝えられているのだろう。そう思いながらもハビエルは周りに目をやり、声を潜めて報告する。
「上々じゃ、よくやった」
「しかし、二人逃がしてしまいましたが、あれでよかったのですか?」
「あぁ、それでよい。ここの守備隊の手強さを伝えるのが目的じゃ。これで奴らは場所を変えざるを得なくなるだろう」
「場所を変える?」
ナンテン姫は両手で抱え持ったワインの器に口を付けたまま頷くと、すました顔で続けた。
「まぁ、その話はさておき、明日は夜明けと共に出かけるのでよろしく頼む」
「どちらへ?」
「川じゃ、マスを釣る。ハビエル殿には案内と護衛を願いたい」
「釣り? お好きなのですか」
「我は小さい頃から釣りは大の得意じゃ」
ナンテン姫は顎を上げて胸を張る。
(小さい頃からって、今でも小さいよね……)
ハビエルは目の前の少女を見やった。テーブルの真ん中に着席する姿は堂々としたものだが、その椅子の下には台が置かれている。それが無ければテーブルの上には首しか出ないであろう、その姿を思い浮かべて、思わず出そうになった笑いを堪える。
「ハビエル殿、何を考えておる?」
「いえ、明日の天気などを」
「そうか、ならよい。我は先に休む。赤彦、後は頼んだぞ。ハビエル殿、今日はご苦労であった」
「ありがとうございます。部屋までお送りしましょう」
「それには及ばぬ、貴台は食事と酒を楽しんでくれ、赤彦もまだ飲み足りんようなのでつき合って貰えるか。だが飲み過ぎないようにな」
姫は、一段高い場所に置かれた椅子から転がり落ちないようにゆっくりと下りると、ハビエルの横を通って出口に向かった。
「明日は大物を釣る、弟王の命がかかっておるからな」
ハビエルは、通り過ぎざまに耳元で囁かれた姫の言葉に目を見開く。
慌ててナンテン姫の方を振り返ると、ごった返す店内で、何故かその進む先だけ道が
◇◇◇
(――弟王の命がかかっている? 聞き間違いじゃぁないよね、確かにそう言った……でもそれとマス釣りと何の関係があるんだ?)
「来たぞ! 赤彦、タモ、タモを持て! 大物じゃ!」
また姫に当たりが来たようだ。
ハビエルは声の方に目をやる。
釣竿を手に、袴姿で渓流の岩の上を軽やかに飛び渡る姿は、昨夜の、いかにも姫でございます、という淑やかな佇まいとは打って変わって、まるで軽業師のようだ。
「せいっ!」
赤彦が容赦のない勢いでタモ(すくい網)を投げつけると、姫はそれを難なく受け取り、かかった魚をすくい上げる。
歯を見せて笑う姫と目が合った。その腕の中には二尺(約六十センチ)もある大物が抱きかかえられている。
川幅の狭いこの辺りで釣れるマスとしては、破格の大きさだ。
(これはまた大きいな……これで何匹目だ?)
ハビエルは笑顔を返すと、自分の足元に目をやった。
網の中に一匹のマスが泳いでいる。四十センチはあろうかという良型だ、しかし、姫は朝から五匹以上は釣り上げており、そのどれもが、これよりも大きい。
ハビエルは貴族の子息ではあるが、次男坊ということもあって比較的放任されており、幼い頃から領内の野山を自由に駆け回っていた。
弟達や屋敷の者達と、よく狩りや釣りに出掛けたが、誰にも負けたことはない。
しかし、今回は形勢不利だ。
相手は、姫とは思えないほどの釣りの腕前を持っている上に、道具がいい。
見たことも無いような細くて丈夫な糸と、強くしなやかな竿との組み合わせで、大物が掛かっても糸を切ることなく、釣り上げることができる。
姫が言うには、糸は
格好をつけて断ってしまったが、素直に道具を借りておくべきだったか……ハビエルは手元の木の枝と、それに括り付けた愛馬ベンダバールの尻尾の毛を見つめる。
(うーん劣勢、でも地元の者としてこのまま終わるわけにはいかないな)
ハビエルは、姫の護衛ということでずっと周囲に気を配っていたが、人の気配はするものの怪しい動きは感じられなかった。おそらく、ナンテン姫のお付きの者達だろう。
(よし、敵もいないようだし、少しだけ釣りに集中しようか)
河原の大岩に腰掛けて大きなあくびをしていた赤彦が、ハビエルの方に目をやる。突然ハビエルの気配が消えたからだ。
渓流の魚は警戒心が強く、少しでも人の気配があると餌には食いつかない。
それと、不思議なことに魚たちは釣り人の気持ちを察する。こちらが釣ろう釣ろうと思いを込めるほどに、仕掛けから遠ざかってしまうのだ。殺気のようなものを感じ取るのかもしれない。
剣術と釣りは似ている。
ハビエルは気配と殺気を消し、一つの岩に変じた。
その様子にナンテン姫は目を細める。
(なるほど、黒丸と赤彦が気に入るのも分かる)
その途端、ハビエルの持つ釣竿に当たりが伝わる。
だが、ハビエルは動かない。
もう一度糸が引かれる。
まだ動かない。
そして三度目の当たり、マスが餌を咥え込んだ瞬間だった。
ハビエルはそれに合わせて手首を軽く返し、針をマスの口に深く食い込ませた。
(よし、掛かった!)
釣竿代わりの木の枝を通じて、マスの動きを感じる。
ベンダバールの尻尾の毛が切れてしまわないように魚の勢いを受け流しつつ、マスを手元まで誘導する。
「ハビエル殿、これを」
ナンテン姫が投げたすくい網を受け取ると、そっと水の中に沈め、竿を立ててマスを誘う。針をかけられても悠然と泳ぐ姿は堂々としており、先ほどナンテン姫が釣り上げたマスに引けを取らない大きさだ。
あと少しで網の中に納まるかと思ったそのとき、突然マスは水面から跳ね上がる。
キラキラと輝く水しぶきの中で勢いよく身を翻すと、尾ひれで糸を断ち切った。
しかし、逃げ
ハビエルは、右足を大きく前に踏み出した突きの姿勢のままため息をつくと、そろそろと枝の先に串刺しにされたマスを引き寄せた。
(あぁ、やっちゃった……)
「見事な突きであった」
いつの間にか横に来ていたナンテン姫が、口から尻尾の先まで、木の枝で真っ直ぐに刺し貫かれたマスを見つめている。
「しかし、残念だがこの魚は使えぬな、傷がついてしまった……なので、焼こう!」
姫は河原の焚火を指さすと、肩を落とすハビエルの背をそっと押した。
河原にマスの油が焼け落ちる香ばしい匂いが漂い始め、ハビエルは無言でマスに噛り付いていた。
「口にあったようじゃな」
ナンテン姫が微笑む。
「美味い! ……ですね!」
ハビエルは、焼き魚には塩を振って食べるものと思っていたのだが、今回は姫に勧められた『タマリ』という茶色い液体をかけてみて驚いた。
しっかりとした塩味をベースに、ほんのりと甘みやうま味も感じられ、その上火に炙られるとなんとも言えない芳ばしい香りが漂う。これは焼き魚に合う。
一心にマスに噛り付くハビエルを満足そうに眺めていた姫は、懐から一枚の紙を取り出した。
「ハビエル殿、食事を終えたらここに向かう。案内を頼めるか」
「はい? どこですか」
ハビエルはマスの串を片手に、差し出された紙を覗き込む。
そこには地図が描かれていた。
「この丸印のところですね? えーっと、ここがアビラで、この川がこの線だから……んっ? ここは……」
ハビエルの顔つきが険しくなり、眉間に皺を寄せて紙を見つめている。
丸印は、今夜アルフォンソ王が泊まる村を囲んでいた。
「――姫、ここには何をしに?」
ナンテン姫は、小さな口でマスをもしゃもしゃと食べながら、大きな目でじっとハビエルを見つめている。どうやら飲み込むまで待てと言うことらしい。
赤彦の方を見やると、腕を組んで大きく頷いている。
やはり待てと言うことだ。
「……」
暫くして姫が口を開いた。
「弟王、アルフォンソを救いに行く」
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