第16話 光と影
ナンテン姫の一行が大物を釣り上げていたころ、城塞都市アビラに向かう街道を、武装した一団が進んでいた。
およそ二百の騎兵とそれに続く十数台の荷馬車、その後を二千の歩兵が進む。その二列縦隊の行軍はいくつもの丘に亘って続き、先頭を行く騎馬は赤地に黄色く城の紋章が染め抜かれた旗を高々と掲げている。カスティーリャ王国旗である。
その旗の後ろに一対の光と影が続く。
影が光に声をかける。
「陛下、今夜はこの先の村に泊まりますぞ」
黒く塗りつぶされた鎧は燻されたように光沢がなく、まるで影絵の世界から抜け出してきたかのように見える。日が落ちれば闇に溶け込んでしまうであろう。
異様に長い手足と細い胴は針金細工のようで、尖った顎の下には黒い髭が長く伸ばされ、ただでさえ面長の顔をさらに長く見せていた。
波打つ黒髪を抑え込むように油で撫でつけた頭髪と、鋭い目だけが怪しい光を放っている。ビジェーナ侯ファン・パチェコである。
「兵と馬をよく休ませよ。村への謝礼は十分にするように」
光は良く通る声で答えた。
その少年は輝いて見えた。
それは透き通るような白い肌や、騎乗する白馬、身に纏った白銀色の鎧によるものでもあったが、もし、それらがなかったとしても、その輝きを失うことはない。そう思わせるような不思議な存在感を全身から放っていた。
現カスティーリャ王であるエンリケ四世に対抗して、アルフォンソ十二世を名乗る十四歳の若き王である。
「さすがは陛下! 兵のねぎらいと国民への施しは国王の務めですからな」
ファンが声音も明るく大げさに褒めると、アルフォンソは正面を見つめたまま軽く手を挙げて応える。
ファンは、横目でさりげなくアルフォンソの表情を確かめるが、整った横顔に作り物のような薄い笑みが張り付いているのみで、若い王の心中を推し量ることはできない。
(相変わらず本心は見せぬか……このまま成長すれば立派な王になれただろうに。実に惜しい……が、まぁ、仕方ないか、全ては神のお導きだ)
ファンは、誰にも気取られぬように手綱を握る指先で、軽く十字を切ると、明るい声で言葉を続ける。
「アルフォンソ王、今夜はマス料理らしいですぞ、村の者たちが王のために飛び切り大きな魚を用意していると、マスはお好きでしたな?」
「マスか……あぁ、好物だ」
普段から感情を表に出さないアルフォンソではあるが、その答えにはほんの僅かながら明るい調子が含まれていた。
ファンはその僅かな感情の揺れを見逃さない。
何年にもわたってカスティーリア王国の実権を握り、陰で操ってきた男ならではの観察眼だ。
(マスが好物……好きな食べ物で命を落とすというのは、なんと皮肉なことであろうか……エンリケ王の仕業に見せかけてアビラで襲撃するつもりであったが、邪魔が入ってしまった。まぁ、突然の
どこか爬虫類を思わせるような眼を満足げに細めたファンは、お気に入りの曲を小さな声で唱えるように口ずさむ。
Kyrie, eleison.
(主よ、あわれみたまえ。)
Christe, eleison.
(キリストよ、あわれみたまえ。)
Kyrie, eleison.
(主よ、あわれみたまえ。)
それは近頃巷で評判の楽師、ヨハネス・オケゲムの『死者のためのミサ曲』であった。
だが、ファンがあまりにも明るい調子で歌うため、もし側にいる者たちに聞こえたとしても、その歌がレクイエムだとは気がつかないだろう。
一方、アルフォンソは、母と姉、そして気心の知れた数人の従者たちと過ごした幼年時代を思い出していた。
アルフォンソは、父である国王ファン二世が逝去すると同時に王の位を継いだエンリケによって、母と姉のイザベルとともに王都から離れたアレバロの王宮に幽閉された。その時、アルフォンソはまだ生後八か月の赤ん坊だった。
この古き王宮は、異母兄であるエンリケ四世によって、跡目争いから追い落とされた哀れな姉弟の牢獄と世間では思われていた。
しかし、イザベルとアルフォンソにとっては、中央の権力闘争から身を守る隠れ家であり、そこでの暮らしは王室の栄華とはかけ離れたものではあるものの、世間が同情するほど辛いものではなかった。
そもそもアルフォンソには王室の華やかな暮らしの記憶など微塵もなかった。物心が付いた頃にはすでに、さびれたアレバロの王宮での慎ましやかな生活の中で、ポルトガル王室の血を引く気高い母と、聡明で美しく優しい姉、それに気心の知れた僅かな使用人達とともに、むしろ心穏やかに暮らしていた。
その街の近くを流れるアダハ川で捕れるマスの料理は、アルフォンソの心の中で、貧しくも穏やかだったアレバロでの日々につながっている。
◇◇◇
「こ、これは……」
アルフォンソ王の料理長は目の前に差し出された六十センチはあろうかというマスに驚いた。
一足先に村に入り、王の好物だというマス料理の仕込みを終えたところなのだが、今になって村長が一匹の大物を持ち込んできた。
料理長は、マスの目の輝きを確かめ、艶やかな肉を指で押してみたり、えらの中を覗いたりしながらしきりと感心している。
「大振りだが実は引き締まっている……脂ののりもいいな。今朝がた持ち込まれたマスもよかったが、それ以上だ。鮮度もいい、しかし……これはどこで手に入れたのですか?」
料理長は、魚を持ち込んだ村長に尋ねた。
「先程、商人が来ましてな、とてもよい魚が手に入ったので買わないかと、何でもこいつは川の
「川の主……確かに、そう言われても信じてしまうほどのマスですね。これこそ王の食卓に相応しい。しかし、この処理はいったい誰が?」
持ち込まれたマスは、血が抜かれ、
それにしてもおかしな話があるものだ、下ごしらえが済んだ魚が持ち込まれるのは今日これで二匹目だ。皆よほど王に自慢のマスを食べてもらいたいらしい。
しかし、これは素人の仕事では無い。料理長はその手際に感心すると同時に、警戒の念を持った。
「あぁ、それですか。これは諸国を旅して歩く伝説の釣り師が、釣り上げたとのことで……商人が言うには、その釣り師は魚をさばく腕も超一流で、釣り上げると同時にパパパッと、目にもとまらぬ早業で包丁を入れたそうです」
村長は、つい先程魚を持ち込んだ商人を思い浮かべた。
鮮やかな黄色の衣装を身に纏う姿は少々風変わりではあったが、小ざっぱりとした成りをしており、丸々と肥えた体に丸い顔、その人懐っこい笑顔は見る者の心を和ませた。
商人は口がきけないようで、腰に下げた大きな紙の束をめくりながら、絵と文字を織り交ぜて、まるで英雄譚を聞かせるかのように、川の主と伝説の釣り師との手に汗握る戦いの様子を、派手な身振り手振りを交えて熱く語った。
最初は胡散臭いと相手にしなかった村長と村人達も、次第に話に引き込まれ、最後にその立派な魚を見せられたときには、誰一人としてその話を疑う者はいなかった。
(どうしたものかな……下ごしらえが済んでいるので今から料理しても食事の時間に間に合う。出所が少々怪しいが……このマスは間違いなく今宵の晩餐の目玉になる)
料理長は暫く考えた後、腹の内側の身を少しだけナイフで削ぎ取ると、口に放り込み、暫く舌の上で転がした。
(良質の脂が舌の上でとろけていく……なんという旨味だ! 雑味も舌のしびれもない、毒の心配はないようだな)
「よし、村長さん、買った。王の皿には川の主だ」
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