第7話 ジャンビーヤ
ハビエルの視界の端で何かが動いた。
それは大通りに面した建物の壁を、ずるりとすべり落ちたように見えた。
その方向に目を凝らしてみるが、陽に熱せられて揺らぐ大気のせいでよく見えない。
ハビエルは厩舎に向いていた足を通りの方へ向けると、最初はゆっくりと、そして徐々に足を速め、ついには走り出した。
左手を腰の剣に添え、褐色の長髪を風になびかせ上体を前傾させて走るその姿は馬上のハビエルそのものであった。
(確かこの辺りだった)
ハビエルは宿屋の前に立ち止まり建物を見上げるが、そこには石壁に幾つかの窓が開いているばかりで、特に変わったものは見当たらない。
通りの石畳に目を落とす。
何も落ちてはいない。
再び建物を見上げ、強烈な陽の照り返しでのっぺりと白く塗りつぶされた壁を、目を細めてさらに念入りに確かめる。すると、三階の窓枠の下から二階の窓枠の上にかけて、なにやら赤く擦れたような跡が微かに付いているのを見つけた。
ハビエルは素早く踵を返すと、宿屋の入り口まで駆け戻り、中に飛び込んだ。
上に続く階段をめがけ、受付の右横を通り抜けようとしたその時、受付台の陰から光る何かが飛び出す。
「うゎっ」
咄嗟に身体を捻ってそれを躱したハビエルは、そのままの勢いで階段を三、四段駆け上がり振り向く。
類稀な才能を持つ騎士ハビエルでなければ、間違いなく脇腹を切り裂かれて内臓をぶちまけていたであろう、それ程までに素早く鋭い一閃だった。
脇腹の辺りで切り裂かれてパックリと口を開けたシャツが目に入るが、そんなことにかまってはいられない。
再び光るものが階段の下から足を払いに来る。
今度はその光の正体がはっきりと見えた。
それは三日月のような形をした両刃のナイフ、ジャンビーヤと呼ばれる東の民が身に着けているダガーであった。
(ジャンビーヤ? 山の老人の手の者か、であれば毒が塗られて……)
ダガーの形状を見て緊張を高めたハビエルは素早く足を上げてそれを躱す。が、ブーツの踵を掠るように行き過ぎたダガーはくるりと向きを変え、次に足を下ろそうとしている先を狙っている。
(こいつ、早い!)
剣を抜く暇はない、そう判断したハビエルは上げた足をそのままに、残る足で階段を蹴ると、両膝を素早く胸に引きつけて相手の頭上に飛び上がった。
ハビエルを下から見上げる形となった男の目が驚いたように見開かれる。
落下する体重の全てを預けて顔面を踏みつけ男を飛び越えながら抜刀したハビエルは、階下に足がつくと同時に剣を左の脇下から後ろに突き出す。
「ジャッ」
(逸らされた!?)
不意を突いて間髪入れずに繰り出した剣がダガーで逸らされたのを感じ取ったハビエルは、後ろを確かめることなく、そのまま前に飛び出し相手に向き直る。
先程まで自分が立っていた場所、腰の辺りを銀色の光が一閃する。
迷いのない美しい軌跡だ。
全身から吹き出す汗とは裏腹にハビエルの口の端が上がる。
先程顔を踏みつけた際も、巧みに衝撃を躱されたのが分かった。ただ者ではない。
「何者だ」
その男はハビエルの誰何に答えることなく後ろに跳び下がり間合いを取る。剣を抜かれたと見るや狭い階段に誘い込む、やりにくい相手だ。
ハビエルは剣先を相手に向けて観察をする。
姿は普通の商人だが、顔は布を巻いて隠している。
こいつは見張り役だ、邪魔が入らぬよう入り口を見張っていたのであろうとハビエルは見当を付ける。仲間はおそらく階上にいるはずだ。いや、こうしている間にもう裏口から逃げられたかも知れない。
(あまり時間も掛けてられないな、『あれ』を使うか)
ハビエルは半身に剣を構え片手突きの体勢をとった。
「誰だ、騒いでるのは。眠れないじゃないか」
その時、受付の後ろにあるドアから宿屋の主人が顔を出した。
演劇などでは、これ以上はないという最悪のタイミングで現れる間抜けな登場人物がたまにいるが、いま二人の間に現れた宿屋の主人はまさにそれであった。
「来るな、戻れ!」
主人の位置からは階段の賊は見えない。
「え、何だって?」
昼寝から起こされたばかりの主人は訳が分からず、ふらふらとカウンターを回ってハビエルの方に向かう。
「あっ馬鹿、危ないから戻れ! も・ど・れって!!」
ハビエルは、ダガー男を剣先で牽制しながら、主人を追い払おうと、空いた手を懸命に振った。
そこに生じた僅かな隙を見逃す賊ではなかった。
するりと主人の背後に張り付き首筋にダガーを当てると、主人の出っ張った腹をハビエルの剣先に押し出してきた。
この期に及んでようやく状況を悟った主人は、泣きそうな顔で懸命に腹を引っ込めようとするが、年季の入った樽腹はほんの僅かも引っ込む気配はない。
やむを得ず半歩下がるハビエル、その動きに合わせ主人を前に押しやるダガー男、そして懸命に腹を引っ込めようとする宿屋の主人。
ハビエルは賊の次の動きを読む。
一つ、この場で主人を前に突き放し受付の後ろから逃げ出す。
一つ、正面出口まで主人を楯に進み最後は主人を突き放し逃げ出す。
そのいずれの場合も、足止めのために主人に何らかの傷を与えるだろう。暗殺用のダガーだ、毒が塗られている可能性が高い。そうなれば宿屋の主人も怪我だけでは済むまい。
(これはまずいな)
ハビエルが考えたその時、賊の背後にふわりと赤い幕が降りた。
と同時に、宿屋の主人の首にダガーを突きつけていた賊の右腕がだらりと下がり、膝が折れ、崩れ落ちる。
それは、まるで糸が切れた操り人形のようであった。
何が起こったのか理解ができず棒立ちの主人、その背後には頭一つ突き出した赤い装束の男がにやりと笑っている。
(これが赤い大男、伯父が身元を保証した男か……確かに敵ではないようだな)
ハビエルは、その大男に声を掛けようとして一歩踏み出したが、不思議なことに、只でさえ見上げる位置にあった男の顔がますます高く上がっていく。手を伸ばすが遠のく男には届かない。
(あぁ、下がっているのは自分の方か)
そう気付いたときには既に視界のほとんどが闇に覆われ、ハビエルはそのまま崩れるように膝をついて倒れた。
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