第3話 維持したいもの
彼が苛めをきっかけに引きこもり始めたのは、中学3年の夏休み後だった。
それまでは成績も良く、彼は自分の成績を得意気に自慢していた。
「今どき塾にも行かないなんてバカだよな。塾では定期試験対策もやってくれんだぜ」
彼が自慢していた相手は、父親が亡くなったばかりの母子家庭の子供だった。塾に行く金など無いと知っていての確信犯だった。
だが夏休み後の定期試験では、塾の予想は大きくはずれた。塾の課題しか勉強してこなかった彼は、今までに無いほど順位を落とした。
彼の学校は進学校なので、廊下に成績上位者が貼り出される。いつも常連の彼の名前が無い事は、すぐに広まった。
彼は何よりも人からバカにされることが嫌いだ。自分はいつも他人をバカ呼ばわりしているのに。
だから結果発表の翌日は、仮病を使って学校を休んだ。
代わりに夕方からの塾には行き、講師に文句を言った。
「先生の予想がはずれたから俺、落第点取ったし。どう責任取ってくれんだよ!」
「いや、あれはあくまで予想問題で。実際に問題を作っている先生じゃないんだから、たまにははずれるのも当然だよ」
講師の開き直った態度に思わずキレた彼は、机を蹴っ飛ばし、椅子を持ち上げてホワイトボードに叩きつけた。
バシ、と大きな音がして、ホワイトボードにヒビが入った。
「君、なんてことしてくれるんだ。親に弁償してもらうからな」
怒りの収まっていなかった彼は、講師にパンチした。
教室を出ていく時にちらりと見ると、講師は鼻骨を折ったのか鼻血が止まらないようだった。
彼の父親は大手企業の課長だった。
「出世しない男に生きる価値など無い」が、信念だった。
成績の良い1人息子には期待していた。
『当時の俺よりも成績が良いから、きっと俺以上に良い会社に入れるぞ』
父親は今、出世コースの大事な時期だった。
「部長になるのが大変なんだ」
だから、最近は土日も接待ゴルフや飲み会にすすんで参加していた。
平日だって帰宅するのはいつも12時過ぎで、泊まりもザラだった。
だから母親は諦めていた。
『うちは母子家庭なんだわ。経済的には恵まれているけど』
息子が塾で大変なことをやらかしたのは、すぐに分かった。電話があってすぐに、母親は塾に謝りに行った。息子は授業を受けずに帰宅していた。彼からは何も報告してもらっていなかった。が、いつも機嫌良く帰って来ていた塾から異常に早く帰宅し、目も合わさずに自室に籠ったので、何かあったのだろう、と予想はしていた。
鼻の治療の為に、殴られた講師はすでに居なかった。
しかし暴れて机を蹴っ飛ばした時の大きな物音で、沢山の見物人が居た。
「あいつさ、自分の勉強不足を棚に上げて先生に食って掛かったんだよ。お前のせいで悪い点になった、て」
「お母さん、見てくださいよ、このホワイトボード。今日はこの教室は使えませんよ。隣のクラスとの合同授業をしたんですからね」
大きく破損したホワイトボード。
床には鼻血を拭き取った跡が残っている。
口々に惨劇を言う生徒や講師達。
「スミマセン! 本当に申し訳ございません!」
母親は頭を下げ続けた。
塾への弁償とケガした講師への治療代と慰謝料で、母親はへそくりから100万円を下ろして支払った。
事の次第を父親に伝えたのは、彼が休み出して3ヶ月以上たった後だった。
それまでずっと父親は忙しそうで、『つまらない話題』の子育ての悩みなど言い出せなかったのだ。
クリスマスも過ぎた頃、父親が突然聞いてきた。
「おい、2学期の成績表はどうした?
まだ見てないぞ 」
彼の通う進学校は中高一貫なので、よほど成績が悪くなければそのままストレートに高校へ進学できる。
だが出席日数が足りなければ、自動的にダブる。
母親は覚悟を決めて、父親に何が有ったのかを話した。
塾講師への暴行や器物損壊に慰謝料を払って、事件沙汰にするのをやめてもらったこと。
元々中学では孤立していたようで、学校へ行かなくなっても誰も友達が訪ねて来ないこと。
欠席が多過ぎて留年が決定的なこと。
本人とはこれから先どうするつもりなのか、キチンと話せていないこと。
父親はさすがにまずいと思ったらしい。
「俺から話してみる」と、初めて子育てに介入してきた。
そして父親は階段を登って息子の部屋へ。
それから3時間以上も話は続いたが、ほとんど父親が話していた。
父親の独壇場が続くなか、息子は何も言わずに泣いていた。
「学校だけは行かないとダメだ。1年位ダブったって良いが、良い大学に行ってキチンと卒業しないと、まともな就職先などないぞ」
「みんな努力してるんだ。お父さんが毎日遅くまで働いて、土日だって仕事の付き合いをしてるのは、会社での地位を高めるために努力してるんだ。
お前みたいにただ勉強さえしてれば良い、なんてのはとっても楽なんだぞ。社会に出たら人並み以上に働いた上で、更に勉強もしないと出世できないんだからな。
わかったんなら、来年からは真面目に学校に行くんだぞ」
息子はその日の晩、御飯を食べに降りて来なかった。
彼は布団の中でずっと、父親に向けてパンチを繰り出していた。
『あんな奴に何がわかる、てんだ。俺みたいに苦しんだことなんか無いくせに! 』
腹がたってどうしようもなくなり、彼は夢中で夜中に家を飛び出した。
当てもなくあちこち歩いているうちに、建築中の家を見つけた。外壁工事が終わったところなのか、足場のパイプを崩して、いくつかの山にして置いてあった。
なんとなくその中の1本を手に取ってみる。少し振ってみる。野球のバットのようにフルスイングしてみる。
『いける!』
彼が同級生に鉄パイプで殴りつけて瀕死の重症を負わせたのは、年明けすぐのことだった。
だから彼は中学ではなく、少年院へ行くことになった。
しばらく少年院で過ごした後は、釈放されて家へ戻れたが、さすがにもう父親は『良い大学へ行け』とは言わなくなった。
代わりに『手に職を付けろ』と言い、彼を知り合いの板前に頼み込んで弟子入りさせた。
だが『料理など女の仕事だ』とバカにしていた彼は、仕事に身が入らずクビになった。
息子が元々は数学が得意だった事を思い出した父親が、次に見つけてきた仕事は税理士事務所のバイトだった。確定申告の時期は、電卓を叩いて金額チェックができるだけでも助かるから、とこれまた父親のコネで見つけてきた。
だが、もはやすべてに投げやりですっかり怠け者になっていた息子は、集中力が続かずタバコ休憩してばかりだったので、繁忙期が終わると延長契約の話は来なかった。
せめて高校くらいは卒業して欲しい、と通信制高校に母親が申し込んでみたものの、課題レポートすらまともに出さず、そこも退学した。
次第に彼は、部屋から1歩も外へ出なくなっていった。
せめて家で仕事ができれば、と母親は彼にパソコンを与えた。
だがパソコン資格の勉強もせず、彼はもっぱらゲームばかりしているようだった。
好きにパソコンの本などが買えるように、と父親の家族カードを1枚彼は持っていた。
先月の支払いが10万円を超えたので、さすがに何に使ったのかと聞くと
「俺は□□□(オンラインゲーム名)の四天王と呼ばれている男だぞ。ショボい装備のままじゃダメなんだよ。
俺だって自分の地位を高めるために、毎日努力してるんだ!」
彼には、ネットゲームの世界が現実世界よりも大事なようだった。
対戦ゲームで強敵に勝った彼は、その勢いで夜中、久しぶりに外出してみた。前の事件に懲りて、以前とは逆方向にぶらぶらと歩いた。
小さな神社に着いた。彼はなんとなく中に入ってみた。
『賽銭を持ってくるの忘れたな。ま、いっか。どうせ気休めだし』
それでも鈴をジャラジャラと鳴らし、かしわ手を打つと、なんとなく本気モードになり、彼は真剣に祈った。
「どうか、いつまでも家に居られますように! もう2度と仕事しろとか、親に言われませんように!」
父親の中では、もはや息子は存在しないかのようだった。カードの支払が月に30万円を超えた時には、さすがに文句を言いに行ったが。
彼もそれからは、多くても月に15万円は超えないように調整しているようだった。
次から次へと新しいゲームが発表される。
彼は話題のゲームの上位者に、いつも名を載せていた。
ランキングの無いゲームなど、ちっとも楽しくはなかった。
初めて全国1位になった時には、嬉しくて堪らなくなり、母親に珍しく自慢した。
「ほら、ここ見てみてよ。このハンドルネーム、俺の事な」
「スゴいねぇ(これが30万円の成果なの?)」
だんだんと母親は食欲が無くなり、家族の食事を考える元気も無くなってきた。
食事のメニューが数種類の繰り返しになり、旬の野菜を使ったり、彩りを考えた美味しそうなオカズでは無くなっていった。
「最近、茶色の物ばっかだな」
息子が文句をつけた日は、チャーハンだった。その前の晩は麻婆丼。その前は牛丼。
野菜を入れなきゃと玉ねぎを炒めるが、茶色になるばかり。
新鮮な野菜は、キャベツが少しあるだけ。
すかすかの冷蔵庫を眺めてため息をついていると、後ろに父親が立っていた。
彼は1人息子が事件をおこして以来、出世はあきらめたようだ。今までの功績で会社をクビにはならないものの、給料がトントン拍子に上がることは無くなった。
代わりにとても早く家に帰るようになった。
母親はよく近くの神社に、願掛けに行っていた。
『息子が独り立ちできますように』
早く帰宅できるようになった父親も、帰宅前に願掛けへ行っていた。
「息子がネットでなく、現実世界でキチンと生きていけますように」
父親はため息をついていた母親に言った。
「なぁ、引っ越そうか」
「え?」
「お前も最近体調が良くないみたいだし、俺も今度の誕生日で定年だ。退職金でどこか遠くへ、誰も知り合いが居ない所へ引っ越さないか?」
「○○はどうするんですか?」
「この家に置いて行こう。誰も作ってくれる人が居なくなったら、自分でご飯も作るようになるよ。もっと早くに家から追い出すべきだった」
「わかりました。ではあの子に気付かれないように準備しますね」
その日も朝から雨だった。幸い霧雨だったので、母親は粗大ゴミを自分で市役所に捨てに行く事にした。
捨てる物の中には、息子の引き伸ばした写真も有った。
「これ、俺が全国1位取った記念の写真。大きく現像して額に入れてよ!」
そう言って息子が付きつけたデジカメの写真フォルダには、満面の笑みでランキング表を映したパソコンをバックに、立っている息子が写っていた。
母親は苦々しい気持ちでそれを見つめた。
彼はその写真を、父親にも見えるように居間に飾れと言った。
だが母親は飾らなかった。
息子は父親に自慢できると思ったようだが、こんな物を見せればかえって怒りだすのは、わかりきっていたからだ。
いつか息子が結婚して孫が生まれたら使おう、と大事に取っておいたベビーカーも捨てよう。
そうだ、この中にこの写真や他の物も入れればちょうどいい。
息子の写真を1番上にしてベビーカーを押していると、話しかけてきた女性がいた。
だが何を勘違いしたのか、ベビーカーの中を見て、驚愕していたようだった。
『あなたには分からないわ。分からない方が幸せなこと、て有るのよ』
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